本山寺もとやまじ

財田川の北岸に立つ四国八十八ケ所霊場第70番礼所。807(大同2)年、平城天皇の勅願により空海が建立したと伝えられる。当時は「長福寺」という名で、江戸時代19世紀頃に本山寺と称されるようになった。境内はおよそ2万m2と広大で、古くから七堂伽藍や塔頭を連ねた大寺として栄華を極めていたことが偲ばれる。
 本堂は、正面5間、側面5間の寄棟造、本瓦葺で、重厚な鎌倉様式。礎木には1300(正安2)年の墨書銘が残っており、末清と国重*の名が記されている。その建築様式は、日本古来の建築様式である和様を基調とするが、細部には鎌倉時代に大陸から伝来した禅宗様*や大仏様*の手法も見られ、厳密には折衷様式と言える。境内の入口に構えられている仁王門(二王門)は鎌倉時代後期の建造で、三間一戸の切妻造りの八脚門である。こちらは本堂より禅宗様、大仏様の色が濃い、折衷様式である。本堂の隣に建つ五重塔は1910(明治43)年に当時の住職、頼富實毅(よりとみ・じっき)が再建したものである。
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みどころ

本山寺の五重塔は田園風景の中に一際高くそびえるランドマークである。広い境内は庭木が美しく手入れされ、多くの伽藍が整然と並び、風格がある。本尊は四国霊場では唯一の馬頭観音。その名のとおり頭上に白馬の頭を配した姿であり、古くから交通の手段であった馬にちなんで交通安全、あるいは家畜の守り神として信仰を集めている。本尊の脇侍仏の阿弥陀如来は別名「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。戦国時代、長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ、脇仏の阿弥陀如来が血を流していた。その姿を見た兵士たちは恐れて退散し、寺は戦火を免れたと伝わる。いわゆる「天正の兵火」*にまつわる言い伝えは、四国霊場の各寺にあり、興味深い。夏の土用の丑の日には、国宝の本堂で、「きゅうり加持」が行われる。これは空海が日本に伝えた病気平癒、災難除けの秘法で、きゅうりの中に願いごとを書き込んだ「護符」を納めて祈祷する。祈祷を受けたきゅうりは自宅に埋めるのが習わし。(勝田 真由美)
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補足情報

*末清・国重:鎌倉時代の大工。奈良の霊山寺本堂(国宝)や薬師寺東院堂(国宝)の建築にも従事した。
*禅宗様:鎌倉時代に禅宗とともに日本に伝わった中国北宋系の建築様式。唐様(からよう)ともいわれた。
*大仏様:鎌倉時代初期、東大寺の再建にあたり,僧重源(ちょうげん)が輸入した宋の建築様式。天竺様とも呼ばれた。
*天正の兵火:天正年間(1573~1592年)、四国統一を狙った長宗我部元親による10年にも及ぶ戦乱。この戦乱により、四国八十八ケ所霊場のうち徳島県13寺、愛媛県4寺、香川県11寺が罹災したとされる。
関連リンク うどん県旅ネット(公益社団法人香川県観光協会)(WEBサイト)
参考文献 うどん県旅ネット(公益社団法人香川県観光協会)(WEBサイト)
七宝山 持宝院 本山寺
『香川県の歴史散歩』山川出版社

2022年11月現在

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