瀬戸内海の多島海景観せとないかい たとうかいけいかん

瀬戸内海は、本州西部、四国、九州に囲まれた日本最大の内海で、東西およそ450km、南北15~55 km、面積23,203km2である。灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ。平均水深が38.0mと非常に浅い海だが、瀬戸や海峡では水深100mを超える。700以上の島(有人島は約150)がある多島海で、外周が0.1km以上の島の数は727ある*。島に含まれない岩礁も含めると総数2000以上というが、「島」の基準によって変わるためはっきりしない。夏冬の季節風を南北の山地にさえぎられる温暖小雨の気候であり、閉鎖性海域であるため外洋からの影響を受けにくく、島や岩礁、浅瀬、潮流などが波やうねりを吸収するため、非常に穏やかな海である。一方で、太平洋から流れ込んだ潮は淡路島周辺を回り込み、豊後水道に流れ込んだ潮は四国を回り紀伊水道へ抜ける複雑な流れによって干満差が大きく、燧灘周辺では4m近くにもなる。大きな干満差と複雑な海底地形や狭い水路がからみ、渦が巻くほど速い潮流が見られる所もある。この激しい潮流は独自の海洋文化を育み、豊かな生態系を生み出してきた源である。
 古代から風光明媚な地として知られ、明石や須磨など歌枕や物語の作中に登場する土地が名所となっていた。近世になると、観光旅行としての寺社参詣が盛んになり、道中の風景や港町の知名度は庶民の間でも高まった。しかし、幕末までは、現在の瀬戸内海全域ではなく、海域、島、港など個別の風景をとらえていたとされる。19世紀に入ると、大洋を航海して瀬戸内海にたどり着いた多くの欧米人が、多島海の美しさや自然と人々の暮らしが融合した穏やかな景観、そしてそれらを船から見た動景(シークエンス景)に魅了され、瀬戸内海を絶賛した**。そのなかには、シーボルトやドイツ人で地理学者のリヒトホーフェン***などがいる。欧米人はこの海域をThe Inland Seaと呼び、その日本語訳が「瀬戸内海」である。
 日本人による最初のまとまった論考は、今の香川県さぬき市出身の小西和(こにし・かなう)****による『瀬戸内海論』 (文会堂、1911(明治44)年) *****である。この中で、小西は瀬戸内海を一つの大きなテーマとして捉えることの必要性を指摘するとともに、瀬戸内海の多島美を積極的に評価した。小西は日露戦争の従軍記者として満州へ渡っており、帰国する際の引き揚げ船から見た瀬戸内海を見て、その美しさに感銘を受けたのである。また、小西は国立公園の必要性も併せて指摘し、のちに国会議員となり、1925(大正14)年、国会に国立公園調査に関する建議案を提出した。当時は自然を公園にするという発想がなく、なかなか賛同を得られなかったが、粘り強く提案を続け、当選6期目の1931(昭和6)年にようやく国立公園法が制定された。1934(昭和9)年の第1回指定で瀬戸内海は雲仙(現・雲仙天草国立公園)、霧島(現・霧島錦江湾国立公園)とともに日本初の国立公園となった。
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みどころ

環境省は瀬戸内海国立公園の特長として、大小数々の島で構成された内海の多島美と、自然と人々の暮らしが一体となった人文景観を挙げている。
 穏やかな海に点在する島々はそれぞれが個性的でありながら、海岸からの眺め、航行する船からの眺め、または沿岸の高台にある展望地からの眺めなど、角度や位置の違いによって様々な姿を見せる。また、四季の移ろいや時間の変化によっても異なる表情を見せる。外洋からのうねりの影響を受けにくい瀬戸内は、海風と陸風が入れ替わる朝と夕方の時間帯で風が止まり、凪になりやすい。夕凪の海面に沈みゆく夕日のながめは格別だ。ただ、真夏の夕凪はひじょうに暑く、日没が遅いこともあって夕涼みの風情は感じられない。地質的には花崗岩が多く、良質な石材の産地として知られる島も多い。瀬戸内火山岩類と呼ばれる火山噴出岩の地域では、卓状台地で知られる屋島、集塊岩の奇岩や奇峯が見られる小豆島の寒霞渓などの景勝地がある。海の色は温かい季節はプランクトンが増殖してエメラルドグリーンに、冬場は透明度が高くなり青みが強くなる。冬の海水温は思いのほか低く、備讃瀬戸や播磨灘では8℃まで下がる。香川県特産の養殖ハマチは越冬できないため、翌年の1月半ばまでにすべて出荷される。穏やかな瀬戸内海ではあるが、海峡や複雑な海底地形と干満差によって潮流の速い海域がある。とくに鳴門の渦潮や潮が川のように流れる愛媛県伯方島の船折瀬戸(ふなおりせと)は有名で、観潮船が出航している。このように、瀬戸内海は変化に富んだ、多様性のある海である。
 古くから海上交通の要衝として栄えた瀬戸内海一帯は、気候も穏やかで、多くの人が暮らしてきた。このため、古い港町や神社仏閣、斜面を利用した段々畑など、人の営みが自然と調和した風景に特徴がある。花崗岩が風化してできた白砂と防風防砂のために植えられたマツ林が美しい「白砂青松」の海岸も人文景観の一つである。海上交通の大動脈でありながら、浅瀬や岩礁が多く、潮流が複雑なため、操船に長けた塩飽水夫や村上水軍が活躍し、その拠点には数多くの遺構が残されている。帆船の時代は、時間によって変わる潮流や風向に合わせて船の航行を調整する「潮待ち・風待ち」 があり、そのための港が形成された。江戸時代に西廻り航路が開発されるまでは山陽側の港につなぐ航路をとっていたが、北前船は瀬戸内海の中央を抜ける沖乗り航路をとるようなった。そのため、沖合の島や半島の先端部が寄港地として賑わった。現代の感覚では不便な場所であるが、江戸時代には全国の物や情報が集まる最先端の地であった。代表的なものが鞆の浦(広島県福山市)、大崎下島の御手洗(広島県呉市)であり、今も古い町並みにその面影をとどめている。
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補足情報

*「日本の島ガイド シマダス」(2019年(財)日本離島センター)
*西洋人によって瀬戸内海全体が一つの概念としてとらえられるようになったことについては、西田正憲『瀬戸内海の発見-意味の風景から視覚の風景へ』(1999年、中公新書)に整理されている。
*リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833年 - 1905年):シルクロードの命名者として知られる。『支那旅行日記』(1943(昭和18)年)のなかで「広い区域に亙る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであろう。 将来この地方は、世界で最も魅力のある場所の一つとして高い評価を勝ち得、沢山の人々を引き寄せることであろう。」と瀬戸内海について書いている。
*小西 和:1873(明治6)年4月26日 – 1947(昭和22)年11月30日。名東県寒川郡長尾名村(現・香川県さぬき市)出身。札幌農学校に進学し農場開拓を志すが、水害により農場が経営破綻。30歳で東京朝日新聞に入社し、翌年、従軍記者として満州に渡る。帰国後の慰労休暇中に瀬戸内海沿岸の調査を開始し、のちに『瀬戸内海論』をまとめる。1912(明治45)年、39歳で衆議院議員に初当選。以後、7回当選。
*『瀬戸内海論』:小西和が38歳の時に上梓した1000ページの大著。6年かけて瀬戸内を調査し、15章、400にも及ぶ項目で地質、地形、気象、生物、景色、水運、漁業、都市、暮らしなど、瀬戸内海を多角的に述べている。初版本は、海の色を思わせる紺青色の表紙に金字のタイトルの美しい装丁。最終章では、景観の保護、外国人観光客の誘致、ホテルの建設など瀬戸内海の将来について言及している。多くの挿絵も小西の手によるもの。北海道時代の恩師、新渡戸稲造の「瀬戸内海は世界の宝石」という言葉が序文に寄せられている(表紙の題字も新渡戸による)。