吉野川(下流域)
愛媛県と高知県に頂をもつ瓶ケ森(1,897m)より湧き出て、高知県の白猪谷を最源流とし、徳島県内にはいると、大歩危小歩危の渓谷で四国山地を横断し、三好市池田町で中央構造線*に突き当たり、川は直角に東へ向きを変えて、河口まで流れ、紀伊水道に注ぐ。全長194km、川幅最長部は2,380m。日本三大暴れ川の一つとして、坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)とともに、四国三郎(吉野川)の異名をもつ。
ここで取り上げる下流域とは、右岸でいうと吉野川市から石井町までの区間である。この区間で、吉野川は、中央構造線に沿って、西から東へほぼ一直線に流れている。吉野川には1927(昭和2)年完成の三好橋にはじまり、2022(令和4)年完成の吉野川サンライズ大橋まで約95年間に47もの橋が架けられている。
吉野川の下流域では、治水の難しさから水稲耕作が行えず古くから畑作が卓越し、近世中期からは藍作が盛んであった。藍は、吉野川の洪水が運ぶ客土によって育てられ、洪水が襲う以前に収穫期を迎えた。藍の積出港だった美馬市脇町をはじめ、各地に豪壮な藍屋敷が残っている。その名も藍住町には「藍の館」があり、藍のすべてを学ぶことができる。石井町には1752(宝暦2)年に完成した、いまでも大切な役割を果たしている第十堰*がある。
ここで取り上げる下流域とは、右岸でいうと吉野川市から石井町までの区間である。この区間で、吉野川は、中央構造線に沿って、西から東へほぼ一直線に流れている。吉野川には1927(昭和2)年完成の三好橋にはじまり、2022(令和4)年完成の吉野川サンライズ大橋まで約95年間に47もの橋が架けられている。
吉野川の下流域では、治水の難しさから水稲耕作が行えず古くから畑作が卓越し、近世中期からは藍作が盛んであった。藍は、吉野川の洪水が運ぶ客土によって育てられ、洪水が襲う以前に収穫期を迎えた。藍の積出港だった美馬市脇町をはじめ、各地に豪壮な藍屋敷が残っている。その名も藍住町には「藍の館」があり、藍のすべてを学ぶことができる。石井町には1752(宝暦2)年に完成した、いまでも大切な役割を果たしている第十堰*がある。
みどころ
吉野川が大歩危・小歩危の渓谷から三好市の中心部池田に出て、ここから東へと流れを変え、広々した流れとなるところが吉野川市になる。吉野川市は、市名にふさわしく「川と緑のふれあうまち」を観光まちづくり計画の基本方針にかかげ、「橋と島のある風景」として阿波中央橋、柿原堰、善入寺島など、9つのみどころをガイドブックで紹介している。
市内だけで9橋が架かるが、その中で、阿波中央橋は、戦後の貧しい環境の中、橋長821mの橋を、1953(昭和28)年に完成させた。戦後における国内初の長大橋として脚光を浴びた。橋の親柱にはイサム・ノグチ*による、「男の子」と「女の子」の石像がある。この地点は、阿波と讃岐を結ぶ重要地点であった。
吉野川の中州である善入寺島は、東西約6km、南北約1.2kmで、約500万m2の広さは、川にある中州では全国最大。古くから拓けてきたところで、江戸時代から藍やサトウキビの産地として知られていた。吉野川改修工事が始まる大正初期の1916(大正5)年まで約500戸約3,000人の人が住んでいた。改修工事でこの島が遊水地となり、島民は、近郊や北海道、朝鮮半島などに移住していった。遊水地帯となったいまでも耕作地として373万m2で、稲・野菜・牧草などを栽培している。
柿原堰は、農業目的に板名用水に水を導くために、1907(明治40)年に築造。堰の上流と下流とでは、水面の高さが5mも違い、堰の下流は、アユ釣りの絶好のポイントで、アユを釣るカンドリ舟*が、そしてアユを狙うたくさんの鳥(サギ類)が集まる。
市内だけで9橋が架かるが、その中で、阿波中央橋は、戦後の貧しい環境の中、橋長821mの橋を、1953(昭和28)年に完成させた。戦後における国内初の長大橋として脚光を浴びた。橋の親柱にはイサム・ノグチ*による、「男の子」と「女の子」の石像がある。この地点は、阿波と讃岐を結ぶ重要地点であった。
吉野川の中州である善入寺島は、東西約6km、南北約1.2kmで、約500万m2の広さは、川にある中州では全国最大。古くから拓けてきたところで、江戸時代から藍やサトウキビの産地として知られていた。吉野川改修工事が始まる大正初期の1916(大正5)年まで約500戸約3,000人の人が住んでいた。改修工事でこの島が遊水地となり、島民は、近郊や北海道、朝鮮半島などに移住していった。遊水地帯となったいまでも耕作地として373万m2で、稲・野菜・牧草などを栽培している。
柿原堰は、農業目的に板名用水に水を導くために、1907(明治40)年に築造。堰の上流と下流とでは、水面の高さが5mも違い、堰の下流は、アユ釣りの絶好のポイントで、アユを釣るカンドリ舟*が、そしてアユを狙うたくさんの鳥(サギ類)が集まる。
補足情報
*中央構造線:西南日本を内帯と外帯とに分ける断層線。諏訪湖南方の杖突峠付近から赤石山脈西線を通り、伊勢湾、紀伊半島の櫛田川および紀ノ川の谷、四国の吉野川の谷を経て、九州に達する。全長約900km。各地に大規模な断層地形を見る。
*第十堰:1672(寛文12)年、6代藩主蜂須賀綱通は徳島城下と吉野川とを結ぶ分水路を開くため、左岸の祖母(うば)ケ島(藍住町祖母ケ島)と右岸の第十(石井町藍畑)との間に幅6~8間(約11~14.5m)の水路を開削し、吉野川の一部を別宮川(べつくがわ、現在の吉野川)に流した。しかし、別宮川へ流れる流量が大きくなり、旧吉野川の流量が減少した。川沿いの水田や藍作は用水に不足し、塩害をもたらした。このため、1750(寛延3)年、旧吉野川筋の四十四カ村は第十地点に堰を築造し、別宮川の水を堰き上げ、水を旧吉野川筋に分水することを、藩に嘆願した。こうして1752(宝暦2)年に幅7~12間(12.6~21.6m)、長さ220間(396m)の第十堰が完成した。1878(明治11)年には、河道形態の変化により水が流れにくくなったため、上流側に上堰を築いて、現在の2段堰になった。1961(昭和36)年の第2室戸台風による出水で堰北部が流出するなど、洪水による被災を繰り返し、1965(昭和40)年以降、表面をコンクリートで覆った構造になった。
*イサム・ノグチ:1904(明治37)~1988(昭和63)年。日系米国人の彫刻家。詩人の野口米次郎と米国女性の子。パリでブランクーシに師事。金属や石・木を用いた抽象彫刻や建築装飾・家具設計などに幅広く活躍。
*カンドリ舟:エンジンがついていない、竿をさして使う木製の舟。吉野川のような大河では、陸から近づきにくい場所に舟をとめて、アユ釣りをする。
*第十堰:1672(寛文12)年、6代藩主蜂須賀綱通は徳島城下と吉野川とを結ぶ分水路を開くため、左岸の祖母(うば)ケ島(藍住町祖母ケ島)と右岸の第十(石井町藍畑)との間に幅6~8間(約11~14.5m)の水路を開削し、吉野川の一部を別宮川(べつくがわ、現在の吉野川)に流した。しかし、別宮川へ流れる流量が大きくなり、旧吉野川の流量が減少した。川沿いの水田や藍作は用水に不足し、塩害をもたらした。このため、1750(寛延3)年、旧吉野川筋の四十四カ村は第十地点に堰を築造し、別宮川の水を堰き上げ、水を旧吉野川筋に分水することを、藩に嘆願した。こうして1752(宝暦2)年に幅7~12間(12.6~21.6m)、長さ220間(396m)の第十堰が完成した。1878(明治11)年には、河道形態の変化により水が流れにくくなったため、上流側に上堰を築いて、現在の2段堰になった。1961(昭和36)年の第2室戸台風による出水で堰北部が流出するなど、洪水による被災を繰り返し、1965(昭和40)年以降、表面をコンクリートで覆った構造になった。
*イサム・ノグチ:1904(明治37)~1988(昭和63)年。日系米国人の彫刻家。詩人の野口米次郎と米国女性の子。パリでブランクーシに師事。金属や石・木を用いた抽象彫刻や建築装飾・家具設計などに幅広く活躍。
*カンドリ舟:エンジンがついていない、竿をさして使う木製の舟。吉野川のような大河では、陸から近づきにくい場所に舟をとめて、アユ釣りをする。
関連リンク | 国土交通省四国地方整備局徳島河川国道事務所(WEBサイト) |
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参考文献 |
国土交通省四国地方整備局徳島河川国道事務所(WEBサイト) 吉野川市(WEBサイト) 『吉野川市観光ガイドマップ』 『地理用語集』地理用語研究会 山川出版社 『徳島県の歴史散歩』 |
2023年02月現在
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