長府の町並み
長府の歴史は古く、日本書紀など記紀の神代の巻に、仲哀天皇が神功皇后とともに「熊襲」制圧の際、仮宮として穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)*1を置いた地として記されている。さらに7世紀の中ごろ、長門国の国府がこの地に設置され長府と称されるようになった。国府のあった場所は不詳ではあるが、現在の忌宮神社*2付近ではないかとされている。8世紀初頭には、現在の長府市街の北、覚苑寺付近に鋳銭司が設けられて日本最初の流通貨幣といわれる「和同開珎」も鋳造された。中世には守護職が置かれ、長門探題としての役割を果たした時期もあり、長門を支配した厚東、大内、陶、毛利の各氏も戦略的な要衝として重視し、また、海陸の交通の要としても栄えた。
江戸時代には、関ヶ原の戦いで敗れた毛利家はそれまで中国地方において大きな勢力であったが、徳川幕府により、周防、長門2カ国に減封されたが、毛利元就の孫にあたる毛利秀元は萩(長州)藩から分藩され、長府藩初代藩主として1600(慶長5)年に入府した(当初約3万6千石、幕末12万7千石)。それ以来、長府は明治維新まで14代にわたり長府藩が統治し、城下町として発展した。さらに、幕末には討幕の中心的存在であった萩(長州)藩の支藩として激動の地ともなった。
こうした長い歴史的背景のなか、現在も侍町や古江小路の町並みには、重厚な門や長く続く練土塀など江戸期の町割りや佇まいを遺し、忌宮神社、功山寺*3笑山寺をはじめとする寺社・史跡、明治後期に竣工した旧藩主の長府毛利邸*4などがある。
江戸時代には、関ヶ原の戦いで敗れた毛利家はそれまで中国地方において大きな勢力であったが、徳川幕府により、周防、長門2カ国に減封されたが、毛利元就の孫にあたる毛利秀元は萩(長州)藩から分藩され、長府藩初代藩主として1600(慶長5)年に入府した(当初約3万6千石、幕末12万7千石)。それ以来、長府は明治維新まで14代にわたり長府藩が統治し、城下町として発展した。さらに、幕末には討幕の中心的存在であった萩(長州)藩の支藩として激動の地ともなった。
こうした長い歴史的背景のなか、現在も侍町や古江小路の町並みには、重厚な門や長く続く練土塀など江戸期の町割りや佇まいを遺し、忌宮神社、功山寺*3笑山寺をはじめとする寺社・史跡、明治後期に竣工した旧藩主の長府毛利邸*4などがある。

みどころ
この街の回り方としては、市街の北にある下関市立歴史博物館にまず立ち寄り、歴史的背景を理解したうえで、博物館近くの長府毛利家墓所がある功山寺と笑山寺を訪れるとよい。とくに功山寺の国宝の仏殿は必見。そのあと、白壁に囲まれた長府毛利邸を訪ねれば、長府毛利家の最後の藩主が明治、大正期に使用した大邸宅をのぞくことができる。長府毛利邸を出たあとは、古江小路の練土塀が続く道をゆったりと歩くのをお勧めする。途中、左手に折れ、東に進めば、かつて国府があったとされる忌宮神社に至る。8月7~13日に開かれる数方庭(すほうてい)祭は、氏子たちの伝統への拘りを感じることのできる祭だ。

補足情報
*1 豊浦宮:日本書紀には「興宮室于穴門而居之。是謂穴門豊浦宮」(長門に仮宮を興し、これに滞在する。これをいわゆる長門豊浦宮である。)とある。その場所は、現在、長府の市街にある忌宮神社あたりとされている。
*2 忌宮神社:延喜式式内社、長門国二之宮。はじまりは穴門(長門)豊浦宮の斎宮であったといわれる。毎年8月7日から13日に催される数方庭(すほうてい)祭は奇祭として知られる。毎夜、男は竹竿を継ぎ足して20〜30mほどにし、その先に幟を付け、これをひとりで持ち上げ勇壮に舞う。一方、女子は切籠と呼ぶ灯籠を吊した笹竹を持ち、鉦・太鼓に合わせて鬼石のまわりを踊り舞う。
*3 功山寺:寺伝では1327(嘉暦2)年に臨済宗の虚庵玄妙によって、長福寺の寺号で創建されたとされている。ただ、仏殿の来迎柱には「元応ニ(1320)年卯月五日柱立」と墨書されており、寺伝の創建より早く造立したという記録が遺されている。この経緯は不詳。この仏殿は鎌倉円覚寺舎利殿と同様式の典型的な唐様(禅宗)建築で国宝に指定されている。5間四方、重層入母屋造、桧皮葺で放射状に広がる化粧垂木に特色がある。功山寺の寺号は、1602(慶長7)年、長府藩初代藩主毛利秀元により、当時荒廃していた長福寺を修復し、曹洞宗に改宗、秀元の死後秀元の法号から功山寺とした。また、当寺は毛利氏に敗れた大内義長の自刃の地でもあり、仏殿の左手の奥に、その墓がある。一方、仏殿右手の裏には、長府藩主毛利家14代のうち7代の墓所がある。さらに幕末には、政争に敗れ京都を追放された三条実美らが潜居し、謀議所ともなったところでもある。
*4 長府毛利邸:長府毛利藩、最後の藩主だった毛利元敏が廃藩置県後、東京在住であったが、1898(明治31)年に当地に邸宅を起工し、1903(明治36)年に竣工したのち、この地に帰住し、1919(大正8)年まで使用した。明治天皇が宿泊したこともあった。重厚な武家屋敷造りで、季節を彩る草木が数多く植栽された日本庭園は、往時の風情を感じさせてくる。
*2 忌宮神社:延喜式式内社、長門国二之宮。はじまりは穴門(長門)豊浦宮の斎宮であったといわれる。毎年8月7日から13日に催される数方庭(すほうてい)祭は奇祭として知られる。毎夜、男は竹竿を継ぎ足して20〜30mほどにし、その先に幟を付け、これをひとりで持ち上げ勇壮に舞う。一方、女子は切籠と呼ぶ灯籠を吊した笹竹を持ち、鉦・太鼓に合わせて鬼石のまわりを踊り舞う。
*3 功山寺:寺伝では1327(嘉暦2)年に臨済宗の虚庵玄妙によって、長福寺の寺号で創建されたとされている。ただ、仏殿の来迎柱には「元応ニ(1320)年卯月五日柱立」と墨書されており、寺伝の創建より早く造立したという記録が遺されている。この経緯は不詳。この仏殿は鎌倉円覚寺舎利殿と同様式の典型的な唐様(禅宗)建築で国宝に指定されている。5間四方、重層入母屋造、桧皮葺で放射状に広がる化粧垂木に特色がある。功山寺の寺号は、1602(慶長7)年、長府藩初代藩主毛利秀元により、当時荒廃していた長福寺を修復し、曹洞宗に改宗、秀元の死後秀元の法号から功山寺とした。また、当寺は毛利氏に敗れた大内義長の自刃の地でもあり、仏殿の左手の奥に、その墓がある。一方、仏殿右手の裏には、長府藩主毛利家14代のうち7代の墓所がある。さらに幕末には、政争に敗れ京都を追放された三条実美らが潜居し、謀議所ともなったところでもある。
*4 長府毛利邸:長府毛利藩、最後の藩主だった毛利元敏が廃藩置県後、東京在住であったが、1898(明治31)年に当地に邸宅を起工し、1903(明治36)年に竣工したのち、この地に帰住し、1919(大正8)年まで使用した。明治天皇が宿泊したこともあった。重厚な武家屋敷造りで、季節を彩る草木が数多く植栽された日本庭園は、往時の風情を感じさせてくる。
関連リンク | 長府観光協会(WEBサイト) |
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参考文献 |
長府観光協会(WEBサイト) 飯田武郷「日本書紀通釈 第3 増補正訓」昭和15年 184/411 国立国会図書館デジタルコレクション 下関市市史編修委員会編「下関市史 原始-中世」 1965年 国立国会図書館デジタルコレクション 忌宮神社(WEBサイト) 功山寺パンフレット |
2025年03月現在
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