瑠璃光寺五重塔(香山公園)るりこうじごじゅうのとう(こうざんこうえん)

JR山口線山口駅から北へ道のり約2kmの香山公園内にある。1442(嘉吉2)年、足利義満に敗れ戦死した大内義弘*1の菩提を弔うために、弟の盛見が当時この地にあった香積寺(こうしゃくじ)*2境内に建立したもの。大内氏の盛時を偲ばせる室町中期の優れた建築物である。なお、瑠璃光寺*3は、香積寺が毛利輝元*4の萩入りとともに萩へ五重塔を残して移転したため、1690(元禄3)年に仁保(山口市北部)より現在地に移ってきた。五重塔の高さは31.2m、三間四方、和様一部唐様式。桧皮葺の屋根は勾配がゆるく軒の出が深く、隅軒が軽やかに反り上がる。また塔身部は上層にいくに従って間隔が狭くなっているため、塔全体を細くすっきりと見せている。一層目の初重の内部には心柱が通っており、心柱を中心として円形の須弥壇が設けられている。円形の須弥壇は塔では類をみず、仏堂においても希少な様式である。
 公園・境内の拝観は無料。瑠璃光寺境内の資料館*5は有料。五重塔周辺は池や回遊路を配した梅・桜の庭園となっており、公園内には、毛利家墓所などもある。なお、五重塔は夜間(日没から22時)にはライトアップされている。
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みどころ

駐車場から公園内に入ると、五重塔は、塔影の池越しに桜、新緑、紅葉それに雪景色とどの季節でも優美な姿をみせてくれる。司馬遼太郎は「雨の中で瑠璃光寺の塔が、下から照明されて立っているのである。塔の光に映えている青葉が、あざといほどに青く、その青葉を裳裾にして立つ塔は、おそろしいばかりの古色を帯びている。…中略…(長州は、いい塔をもっている)と、 惚れぼれするおもいであった」と、五重塔と向き合ったときの印象を語っている。また、五木寛之は「百寺巡礼」のなかで「この五重塔は美と実用の両立、というとおかしいかもしれないが、どっしりとした落ち着きがありながら、しかも美しい。意匠と技術とが見事に調和したところから、あの独特の美しさが生まれているのだろう」と賞讃の言葉を尽くしている。まずは、池の淵に立ち、ゆっくりと視線をあげていくとことをお勧めする。構造美と意匠美が兼ね備わった立ち姿の素晴らしさを感得できることと思う。とくに夜間のライトアップに映し出される姿は美しいので、この時間帯にも訪れたい。(2026年3月(予定)まで、瑠璃光寺五重塔は令和の大改修中であるが、公園内の出入りは可能。)
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補足情報

*1 大内義弘:1356(正平11)~1399(応永6)年。周防・長門両国ほかの守護。南北両朝の合体に功があり、室町幕府の安定に寄与した。朝鮮との外交・貿易を独占的にとり仕切る立場をつかみ、大内氏の隆盛を築いた。しかし、将軍足利義満との関係が悪化し、足利幕府に対し反乱(応永の乱)を起こしたが、敗死した。
*2 香積寺(こうしゃくじ):1371(建徳2)年に大内義弘が仏宗真悟(石屛子介)禅師を開創として建立した。
*3 瑠璃光寺:1471(文明3)年に大内氏の重臣陶弘房の夫人が夫の菩提寺として仁保村(山口市北部)に建立。一時、海翁寺とも称したが、その後、また瑠璃光寺に復し、1690(元禄3)年に香積寺の跡地に移転してきた。
*4 毛利輝元:1553(天文22)~1625(寛永2)年。元就の孫、隆元の長男。豊臣秀吉から112万石の知行目録をうけ、五大老に列したが、関ヶ原の戦いで西軍の盟主となって敗れたため、周防・長門2国に減封され、隠居したものの、藩政の実権は握っていた。1604(慶長9)年に萩に築城し、山口から移った。
*5 瑠璃光寺資料館:雪舟作の全岩東純和尚像をはじめ、五重塔の模型、全国の五重塔などを展示・紹介。
関連リンク 瑠璃光寺(WEBサイト)
参考文献 瑠璃光寺(WEBサイト)
一般財団法人山口観光コンベンション協会(WEBサイト)
文化庁「国指定文化財等データベース 瑠璃光寺五重塔」(WEBサイト)
山口県教育会編「山口県百科事典」大和書房1982年 香積寺(283p)
司馬遼太郎「街道をゆく1湖西のみち、甲州、長州路ほか」 朝日新聞出版 Kindle 版

2025年03月現在

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