住吉神社
JR山陽新幹線・山陽本線新下関駅から南東へ約1.5kmのところにある。伝承では、神功皇后が朝鮮出兵の帰途に神託により、現在地に「荒魂(あらみたま)」を祀ったのが始まりとされ、同様の神意で大阪の住吉大社も祀られたと伝えられている。また、同社は、927(延長5)年に成立した法制書の「延喜式神名帳」では「住吉(に)坐(す)荒御魂神社三座*1」と記載されており、「名神大社」として朝廷からも高い格付けを与えられ、長門国一ノ宮とされていた。
国宝の本殿は1370(応安3)年大内弘世*2の再建で、室町時代の造立。桧皮葺の五神殿*3を相ノ間で連絡した九間社流造り、さらに各神殿の屋根上の前流れに千鳥破風を設けており、流造と春日造の折衷様式の特異事例とされている。また、拝殿は1539(天文8)年毛利元就*4が建立したもので、本殿を前に朱塗りが際立つ切妻造・檜皮葺である。年中行事としては、旧暦の1月1日に行われる和布利(めかり)祭や5月第3日曜日のお田植祭などが知られている。
国宝の本殿は1370(応安3)年大内弘世*2の再建で、室町時代の造立。桧皮葺の五神殿*3を相ノ間で連絡した九間社流造り、さらに各神殿の屋根上の前流れに千鳥破風を設けており、流造と春日造の折衷様式の特異事例とされている。また、拝殿は1539(天文8)年毛利元就*4が建立したもので、本殿を前に朱塗りが際立つ切妻造・檜皮葺である。年中行事としては、旧暦の1月1日に行われる和布利(めかり)祭や5月第3日曜日のお田植祭などが知られている。

みどころ
鳥居をくぐると最初に迎えてくれるのは、青銅製の表情豊かな愛嬌のある狛犬。石段の上を仰ぐと朱塗りの楼門が鬱蒼とした社叢に映え美しい。石段を上り楼門を抜けると、これもまた朱塗りの拝殿が、前に突き出すように存在感を主張している。それとは対照的に、拝殿奥には、5連棟の桧皮葺・白木造りの本殿が豊かな緑の社叢を背に、まさに厳粛に鎮座している。五連棟の全体像は正面からはみることが出来ないが、拝殿右手に立つと、5つの桧皮葺きの連続的な屋根の流れを確認することができる。静かな境内でじっくりとこの社の歴史、神々と向き合いたいものだ。

補足情報
*1 荒御魂神社三座:航海の神である底箇之男・中箇之男・上箇之男の三神で住吉大神とも呼ばれる。
*2 大内弘世:生年不詳~1380(康暦2・天授6)年。南北朝の武将。はじめ南朝側につき、1363(貞治2・正平18)年に北朝側に転じ、周防・長門、石見の守護となる。大内氏の本拠地を周防国吉敷郡から山口に移転したと言われている。
*3 五神殿:住吉大神を主神として、応神天皇、武内宿禰、神功皇后、建御名方命の五座。
*4 毛利元就:1497(明応6)~1571(元亀2)年。中国地方の戦国大名。室町幕府御家人毛利弘元の次男。安芸郡山城(広島県吉田町)に生まれる。跡目相続で苦しむが、やがて大内義興の配下に入り、安芸の中央部をほぼ統合。大内氏と尼子氏との戦いに従軍、軍功が認められ芸備2カ国の支配を大内氏から任された。その後、陶氏、大内氏を破り、防長芸石備5カ国に支配を拡大。その後も領国の拡大を目指した。3人の子どもに授けた、協力の大切さを説く「三本の矢」の教えも知られている。
*2 大内弘世:生年不詳~1380(康暦2・天授6)年。南北朝の武将。はじめ南朝側につき、1363(貞治2・正平18)年に北朝側に転じ、周防・長門、石見の守護となる。大内氏の本拠地を周防国吉敷郡から山口に移転したと言われている。
*3 五神殿:住吉大神を主神として、応神天皇、武内宿禰、神功皇后、建御名方命の五座。
*4 毛利元就:1497(明応6)~1571(元亀2)年。中国地方の戦国大名。室町幕府御家人毛利弘元の次男。安芸郡山城(広島県吉田町)に生まれる。跡目相続で苦しむが、やがて大内義興の配下に入り、安芸の中央部をほぼ統合。大内氏と尼子氏との戦いに従軍、軍功が認められ芸備2カ国の支配を大内氏から任された。その後、陶氏、大内氏を破り、防長芸石備5カ国に支配を拡大。その後も領国の拡大を目指した。3人の子どもに授けた、協力の大切さを説く「三本の矢」の教えも知られている。
関連リンク | 住吉神社(WEBサイト) |
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参考文献 |
住吉神社(WEBサイト) 国学院大学「神名データベース」墨江之三前大神(WEBサイト) 下関市市史編修委員会編「下関市史 原始-中世」1965年 163/284 国立国会図書館デジタルコレクション 皇典講究所、 全国神職会 校訂「延喜式 校訂 上巻」昭和4年 234/401 国立国会図書館デジタルコレクション 「朝日日本歴史人物事典 大内弘世 毛利元就」 朝日新聞出版 |
2025年03月現在
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