吉備津彦神社
JR吉備線(桃太郎線)備前一宮駅からすぐ、岡山市西部、吉備の中山*(標高175m)の北東麓に鎮座する。祭神は当地を治めたとされる大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)*。
中世以後は、戦国大名の赤松氏や宇喜多氏からも尊ばれ、江戸時代になると岡山藩主池田氏の援助で社殿が再建・整備され、1697(元禄10)年には三間社流造・檜皮葺きの本殿が完成した。1930(昭和5)年の失火により、本殿、随神門など一部の社殿を残して焼失したが、1935(昭和10)年に再建され、今も備前国一宮としての風格を備えている。夏至の日には、鳥居の正面から朝日が昇り、その光が社殿に差むよう建てられているといわれ、別名「朝日の宮」とも呼ばれている。また、本殿の背後にある御神体山、吉備の中山の山頂にある磐座(いわくら)を元宮として、毎年5月第2日曜日に神事を行う。
中世以後は、戦国大名の赤松氏や宇喜多氏からも尊ばれ、江戸時代になると岡山藩主池田氏の援助で社殿が再建・整備され、1697(元禄10)年には三間社流造・檜皮葺きの本殿が完成した。1930(昭和5)年の失火により、本殿、随神門など一部の社殿を残して焼失したが、1935(昭和10)年に再建され、今も備前国一宮としての風格を備えている。夏至の日には、鳥居の正面から朝日が昇り、その光が社殿に差むよう建てられているといわれ、別名「朝日の宮」とも呼ばれている。また、本殿の背後にある御神体山、吉備の中山の山頂にある磐座(いわくら)を元宮として、毎年5月第2日曜日に神事を行う。
みどころ
緑深い吉備の中山を背に大鳥居から本殿までが一直線に並ぶ、端正な神社である。その直線と重なる参道の正面に石造りの大鳥居がそびえ、左右に備前焼の狛犬が控える。鳥居を抜けると両脇に池が広がり、太鼓橋を渡って随神門をくぐると、左右に高さ11.5m、笠石が約8畳もある巨大な石燈籠が建つ。1830(文政13)年から27年にもわたって寄付がよせられ、1859(安政6)年に天下泰平を祈願して建立されたものである。現在の本殿は、岡山藩主・池田綱政の命により1697(元禄10)年に再建された。摂社の子安神社は、祈祷により岡山藩の名君・池田光政(綱政の父)を授かったと伝わる。現在の建物は、1672(寛文12)年に建てられたもので、桃山様式を色濃く残す。そのほか、温羅の和魂(にぎみたま)を祀った温羅神社や吉備津彦命の遠征に従事した武人らを祀った社など末社が境内に多数ある。
独特の神事として、五穀豊穣を祈願する8月2、3日の「御田植祭」(岡山県指定重要無形民俗文化財)が有名。2日の夜、神池に特別に設置された祭場で「御斗代(みとしろ)神事」が行われ、翌3日の午前中には「御幡(おはた)献納神事」が行われる。「御幡献納神事」は、竹竿に白布を船の帆のように掲げた「御幡」を持って行列するものである。奉仕後は「御幡」につけた扇が参拝者に授与され、その扇を田畑に立てると豊作になり、家に祀ると家内安全になるといわれている。県内の御田植神事のなかでも大掛かりなもので、たくさんの参拝者で賑わう。
独特の神事として、五穀豊穣を祈願する8月2、3日の「御田植祭」(岡山県指定重要無形民俗文化財)が有名。2日の夜、神池に特別に設置された祭場で「御斗代(みとしろ)神事」が行われ、翌3日の午前中には「御幡(おはた)献納神事」が行われる。「御幡献納神事」は、竹竿に白布を船の帆のように掲げた「御幡」を持って行列するものである。奉仕後は「御幡」につけた扇が参拝者に授与され、その扇を田畑に立てると豊作になり、家に祀ると家内安全になるといわれている。県内の御田植神事のなかでも大掛かりなもので、たくさんの参拝者で賑わう。
補足情報
*吉備の中山:北東から南西に伸びる稜線が備前国と備中国の境界線とされ、西麓(備中)に吉備津神社、東麓(備前)に吉備津彦神社が鎮座する。古来より神の宿る山(御神体山)として信仰され、『枕草子』や『古今和歌集』にもその名が見られる。多くの古墳や古代祭祀遺跡が残り、吉備の中山の中心部には吉備津彦命の墓とされる中山茶臼山古墳(宮内庁管理)、北東には吉備津彦神社が祀る磐座がある。
*大吉備津彦命:吉備津彦命のこと。記紀では本来の名は(ヒコ)イサセリヒコノミコト(比古伊佐勢理毘古命・五十狭芹彦命)。第7代孝霊天皇の皇子。『日本書紀』によると、第10代崇神天皇の時代、大和朝廷に従わず各地で反乱を起こしていた賊徒の平定のために派遣された四道将軍のうちの一人で、西道(のちの山陽道)に派遣された。昔話「桃太郎」のモデルとなった「温羅伝説」では温羅を退治したとされる。
※「温羅伝説」:吉備地方に伝わる伝説で、鬼城山に住み、一帯を支配した温羅が、村人を襲い悪事を重ねていたため、大和朝廷が派遣した吉備津彦命によって退治されるというもの。
*大吉備津彦命:吉備津彦命のこと。記紀では本来の名は(ヒコ)イサセリヒコノミコト(比古伊佐勢理毘古命・五十狭芹彦命)。第7代孝霊天皇の皇子。『日本書紀』によると、第10代崇神天皇の時代、大和朝廷に従わず各地で反乱を起こしていた賊徒の平定のために派遣された四道将軍のうちの一人で、西道(のちの山陽道)に派遣された。昔話「桃太郎」のモデルとなった「温羅伝説」では温羅を退治したとされる。
※「温羅伝説」:吉備地方に伝わる伝説で、鬼城山に住み、一帯を支配した温羅が、村人を襲い悪事を重ねていたため、大和朝廷が派遣した吉備津彦命によって退治されるというもの。
関連リンク | 吉備津彦神社(WEBサイト) |
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参考文献 |
吉備津彦神社(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 岡山市公式観光情報 OKAYAMA KANKO.net (公益財団法人おかやま観光コンベンション協会)(WEBサイト) 「岡山県の歴史散歩」山川出版社 「まいられえ岡山」山陽新聞社 |
2024年11月現在
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