岡山城おかやまじょう

岡山駅から路面電車の通る「桃太郎大通り」を東へ1.7km、岡山市内を流れる旭川西岸にあり、対岸には金沢の兼六園や水戸の偕楽園とならぶ名園とされる岡山後楽園がある。天守の黒く塗られた下見板張りの外観から、「烏城」(うじよう)、「金烏城」とも呼ばれる。かつて本丸には30の櫓と6の城門を誇っていたが、明治期の国有化と太平洋戦争下の空襲でその多くを失い、建築当初から残る建物は月見櫓と西丸西手櫓*1のみである。現在の天守は、1966(昭和41)年に鉄筋コンクリート造で外観を旧状どおりに再建したもの。2022年11月に耐震補強やバリアフリー対応など令和の大改修を終え、天守内部の展示を一新している*2。
 岡山城の歴史は、旭川下流域の広大なデルタ地帯の中央に並ぶ岡山、石山、天神山の3つの丘のうち、石山に在地の小領主金光氏が大永年間(1521〜1527年)に城を築いたことにはじまる。その後、備前東部から興って、美作、備中東部にまで勢力を伸ばした宇喜多直家が、1570(元亀3)年金光崇高を滅ぼし、1573(天正元)年に石山の城へ入城した。直家の子、秀家(豊臣秀吉の猶子)は本丸を東隣りの「岡山」に移し、石山の城を取り込むかたちで近世城郭として整備し、1597(慶長2)年頃に天守が完成した。岡山の地名の由来はこの「岡山」にある。城郭は本丸から西に向かって縄張りされ、北から東にかけては旭川を整備して天然の堀としている。
 関ヶ原の戦い(1600年)のあと小早川秀秋が入封したが、2年後に急死し、嫡子なく断絶。代わって1603 (慶長8) 年、姫路藩主池田輝政*の五男(公式には次男)、池田忠継がわずか5歳で岡山藩主となった(藩政は輝政の嫡男、利隆が代行)。輝政の没後、忠継は1614 (慶長19)年に岡山に入るが、翌年わずか17歳で病没したため、同母弟の忠雄(ただお、ただかつ)が家督を継ぎ、大手門の改修や、本丸中段の北側への拡張を行った。この後、岡山城では大規模な増改築は行われず、明治まで維持された。1632(寛永9)年の忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため鳥取へ転封し、かつて幼少のため姫路から鳥取へ転封となっていた池田光政(利隆の子)が入れ替わりで入封した*4。以後、幕末まで光政系池田氏(宗家)の居城となった。
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みどころ

天守の再建と同時に、明治期に破却された廊下門・不明門(あかずのもん)・六十一雁木上門と塀の一部が再建され、城郭としてのたたずまいを取り戻した。内堀と旭川に囲まれた本丸部分が烏城公園として整備されている。岡山城は関ヶ原の戦い以前に建てられ、大坂城や広島城とともに近世城郭の先駆けとなった城で、安土桃山時代の様式を残しているのが特徴である。天守は「岡山」の地形に合わせて五角形の天守台の上に建ち、五角形の頂点にあたる岡山後楽園側(北側)では、高石垣がせり出して重厚な印象を受けるが、底辺にあたる本段正面(南側)では均整のとれた優美な姿を見せる。
 本丸は、天守の建つ本段、その西の一段下がった中の段、 南側から西側のさらに下がった下の段から成っている。本段は宇喜多氏時代にほぼ全体が完成し、石垣は鈍角に折れ曲がる角を多用しており直角が一つもない。中の段には城主の御座所と藩政を行う表書院があった。宇喜多氏時代に一部が築かれ、小早川氏時代に南に、池田氏時代に北へと大幅に拡張された。本段とは異なり、直角に曲がる石垣上に多数の櫓が配置されていた。これは関ヶ原の戦い後に築かれた多くの城で採用されている形式である。北西隅に建つ現存建築の月見櫓は池田忠雄の時代に建てられ、軍事目的以外に月見の宴の際に展望台としても使用されたことからその名があるという。城外側からは2階建てに見えるが、3階建てで最下は床下の土蔵となっている。食料・兵器を貯蔵する機能を備え、城外側は石落や格子窓を設けて軍備を高めているが、城内側は2階に手すりを備えた縁側を設けていて開放的である。下段の内堀沿いは宇喜多氏時代、旭川沿いは池田氏時代に築かれ、大手方向に面した内堀沿いには多くの三層櫓が建っていた。本丸の石垣に沿って一周すると宇喜多・小早川・池田各氏の時代に築かれた石垣が見られる。本段の大部分は宇喜多秀家による築城時のもので、自然石をほとんど加工せずそのまま積んだ「野面積み」であり、天守北側の高石垣はこの時期のものとしては全国有数の遺構といえる。池田氏時代の石垣には江戸時代初頭の「打込接(うちこみはぎ)」の石積みを見ることができる。中の段では南北で石垣の趣が同じ城とは思えないほど異なっており、西側では宇喜多氏時代の野面積み石垣と池田氏時代の打込接の石垣が隣り合っている様子も見られる。
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補足情報

*1 西の丸跡地の旧内山下小学校内に建つ。
*2 岡山市出身の歴史学者・磯田道史氏による展示監修。視覚的・直感的でわかりやすい展示を目指し、図像や映像による解説、大きさや重さを実感できるレプリカの刀や銃などを導入している。
*3 池田輝政(1564~1613):織田信長の重臣・池田恒興の次男で、本能寺(1852年)の変ののち、豊臣秀吉の猶子となった。小牧・長久手の戦い(1584年)で父と兄が討死にしたため家督を継ぐ。初め中川清秀の娘を正室に迎えたが、嫡男利隆の産後に病気のため実家に戻り,1594年に徳川家康の娘・督姫(良正院)を継室に迎えた。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、岐阜城攻略の功により播磨国姫路藩52万石を領した。松平の姓を許されたほか、家康の外孫の忠継には備前28万石、忠雄には淡路6万石が与えられるなど一族は厚遇され、「西国将軍」と称された。
*4 姫路城や岡山城は西国大名を抑えるための重要な城であったため、世継ぎが幼少の場合は国替えの対象となった。池田輝政の弟(池田恒興の三男)長吉は、関ケ原の戦いの後、鳥取に6万石で入封し立藩した。それを継いだ子の長幸は1615年に備中松山藩へ転封し、代わって池田宗家の光政(輝政の子利隆の嫡男)が幼少を理由に姫路から鳥取に国替となった。