誕生寺たんじょうじ

JR津山線誕生寺駅の北西700m、法然の生家漆間家の屋敷跡に建つ浄土宗の特別寺院で、山号を栃社(とちこそ)山という。1193(建久4)年、法力坊蓮生(ほうりきぼうれんせい)*が創建した。法然の父、漆間時国(うるま・ときくに)は久米の押領使(おうりょうし)*で、法然が9歳のとき、預所(あずかりどころ)*の明石定明(あかし・さだあきら)の夜襲を受けて深傷を負い、死に際して法然の出家を望んだと伝えられる。父の死後、母の弟が住職をしていた奈義町の菩提寺に入り、その住職の勧めで比叡山に登った。
 1716(正徳6)年建造の山門は薬医門の典型的な様式で、付帯する筋塀は1857(安政4)年伏見宮家より寄進された。御影堂(本堂)は2度の損壊の後、1695(元禄8)年に再建された二重の五間堂で、正面に唐破風造の向拝を持ち、屋根の上には仏堂としては珍しい鯱鉾や宝珠が見られる。内陣には法然が43歳の時、亡き父母のために自ら刻んだ自身の像が本尊として祀られている。
 代表的な行事として、室町時代から続く「二十五菩薩練供養」がある。法然の両親を供養する祭事で、毎年4月第3日曜日に行われる。二十五菩薩の装束を身に着けた信徒らが、浄土に見立てた御影堂と現実世界に見立てた山門手前300mにある娑婆堂を往復する。当日の法要は、浄土門主に代わって任命される浄土門主御代理導師が導師を勤める。
#

みどころ

山門をくぐるとすぐ目に入るイチョウの大木は推定樹齢870年で、手が届くほど地面近くまで枝が扇のように広がる。法然が比叡山に旅立つとき、杖にしていたイチョウを挿したものが根づいたと伝わる。根を上向きに挿したため、根が逆に伸びた「逆木(さかき)の公孫樹(イチョウ)」と呼ばれている。法然の誕生時、二流れの白い幡が飛んできて引っ掛かったというムクノキや、敵将の定明が片目の傷を洗った片目川など、当地には多くの逸話や伝承があるが、木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期)の胎内から「法然上人御誕生聖地」と書かれた摺仏が多数発見されていることから、誕生寺が法然ゆかりの寺であることは疑いない。
 御影堂の右側には、客殿と方丈庭園(法楽園)があり、寺務所に申し出れば、拝観できる(有料)。客殿の襖絵は、幕末の雪舟ともうたわれた狩野法橋義信*の作であり、見応えがある。方丈庭園はスギの木立が静謐さを際立たせる。そのほか、境内には宝物館があり、前述の阿弥陀如来像や清凉寺様式釈迦像などを見学できる。
#

補足情報

*法力坊蓮生(ほうりきぼうれんせい):熊谷直実(1141~1208)のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、石橋山の戦以降、源頼朝の御家人となり、数々の武功を挙げた。一ノ谷の戦で平敦盛を討つ『敦盛最期(あつもりのさいご)』は『平家物語』でも最も有名な場面の一つ。後に出家して、法然の弟子となる。
*押領使:平安時代、兵を率いて反乱などの鎮定にあたった令外の官(臨時の官職)
*預所:荘園で領主に代わって荘地・荘官・年貢などの管理をする職。また、その役所。
*狩野法橋義信:1788(天明8)年、播州赤穂生まれ。幼少より画を志し、大坂に出て紀州藩の絵師佐野龍雲に師事し、京都で正信、元信などの狩野派の画跡を訪ね、1827(文政10)年、40歳で画位「法橋」に叙せられる。幕末の軟弱化した狩野派の画風を嫌い、古い狩野画の復興を目指した。
関連リンク 浄土宗特別寺院誕生寺(WEBサイト)
参考文献 浄土宗特別寺院誕生寺(WEBサイト)
岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト)
「岡山県の歴史散歩」山川出版社

2024年10月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。