吹屋の町並みふきやのまちなみ

JR備中高梁駅から約25km、吉備高原西部、標高550mの山あいにある、銅山*と赤色顔料のベンガラ*の製造で栄えたまち。旧吹屋往来*に沿って、赤褐色の石州瓦とベンガラ格子に赤い土壁や白漆喰壁の町並みが続く。この町並みは、ベンガラの製造・販売で財を成した豪商たちが石州(現在の島根県)から宮大工を招き、江戸後期から明治にかけて形成された。
 吹屋のベンガラは銅山の捨て石から偶然発見され、硫化鉄鉱を焼いた中間生成物のローハ(緑礬)を原料に人工的に製造することに成功し、1777(安永6)年から工業化した。色彩が鮮やかで品質が良いことから、陶磁器や漆器、建築、船舶の塗料として重宝され、国内随一の産地となった。
 町並みの周辺には、銅山の坑内の一部を公開している「笹畝坑道」や明治時代のベンガラ工場を復元した「ベンガラ館」があり、銅山とベンガラで財をなした大庄屋の広兼邸や代官御用所の西江邸がある。1974年(昭和49年)に、これらを含む一帯(下谷地区、吹屋地区、中野地区、坂本地区)が岡山県の「ふるさと村」に指定された。このうち、往来沿いの吹屋地区、下谷地区の0.064km2が1977(昭和52)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
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みどころ

山あいに忽然と現れる赤い町並みは、まるでタイムスリップをしたかのような錯覚を起こさせる。町並み観光の中心となる吹屋地区では、切妻造・入母屋造・平入り・妻入りの町家が混在し、色彩的な統一感がありつつも、変化のある町並みが形成されている。町家は江戸時代末期から明治時代初期のものが多く、外観を活かし喫茶店や土産物店などに活用されているものもある。ベンガラ商人たちは株仲間を組織し、まちづくりも合議のうえ計画的に進められたという。町並みの中ほどにある旧片山家住宅は、江戸時代後期に建てられたベンガラ窯元の邸宅で、店構えを残す主屋とベンガラの製造に関わる蔵や仕事場が国の重要文化財に指定されている。その向かいに建つ郷土館は、片山家の総支配人が分家したもの。町並みの北にある旧吹屋小学校校舎は、明治時代に建てられた木造の擬洋風建築で、2012(平成24)年の閉校まで使用されていた。本館1階の幅の広い廊下や2階にある折上天井の講堂など建築様式もユニークだ。
 吹屋地区の南方、中野地区にある笹畝坑道やベンガラ館、広兼邸宅に足をのばせば、山間部にこのような町並みが展開した理由がわかるだろう。ベンガラ館では原料のローハを焼き、水に晒して攪拌・脱酸し、乾燥する製造工程が再現されている。1810(文化7)年に建てられた広兼邸は2,581m2の敷地を有し、長大な長屋門、城のような楼門と石垣を備えた立派な屋敷である。吹屋は天領でありながら代官屋敷はおかれず、吹屋地区から西へ約3.5km下った坂本地区にある西江家が鉱山を経営しながら代官を兼務した。屋敷は江戸時代中期(1710年頃)に建てられ、現在も西江家の個人邸宅として使用されているが、予約制で見学が可能である。
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補足情報

*吹屋の銅山:17世紀半ばに倉敷代官の提唱で、石見銀山や佐渡金山でも業績をあげた山師吉岡の名にちなみ、吉岡銅山と呼ばれるようになった。開山は明らかでないが、古文書には平安時代や室町時代後期の記録も見られる。戦国期には尼子・毛利両氏の間で争奪戦が演じられ、江戸時代には幕府直轄領となった。代官のもと、元禄年間(1688~1704年)には泉屋(住友家)、享保から天保年間(1716~1844年) には地元の福岡屋(大塚家)、明治以降は三菱(岩崎家)が経営にあたった。三菱は莫大な資本と近代技術を鉱山に注ぎ、明治から大正にかけて、従業員は1,300人以上を数え、最盛期を迎えた。第一次大戦後の不況と世界恐慌で1932(昭和7)年に一時閉山し、第二次世界大戦後に再開したが、1972(昭和47)年に閉山している。
*ベンガラ:古代から使用されている赤色の無機顔料で、洞窟壁画や埴輪などにも用いられている。天然には赤鉄鉱として産出され、日本にはインドのベンガル地方から輸入されていたことからベンガラと呼ばれた。空気中で最も安定した酸化状態にあるため化学変化が起こりにくく、耐候性・耐久性に優れ、安価で人体にも無害なため広く使用されている。現在は、工場で人工硫酸鉄を苛性ソーダで中和して生産されている。
*旧吹屋往来:備後国東城(広島県庄原市)と備中国成羽(なりわ)(岡山県高梁市)を結ぶ。東城は日本海と瀬戸内海とのほぼ中間に位置し、山陽・山陰を結ぶ中継地として中国地方各地からの街道が集まっていた。
※吹屋とは、もともとは近世の鉱山における製錬所やそこで働く職人をさす。