頼久寺の庭園
頼久寺は備中松山城の城下町にある、臨済宗永源寺派に属する寺院。創建は明らかではないが、足利尊氏の命により1339(暦応2)年に備中安国寺として再興される以前から存在した古刹。その後、永正年間(1504〜1521年)に備中松山城主、上野頼久が伽藍を再興し寺領を与えたことから、頼久の死後、その名を加え、天柱山安国頼久禅寺と称した。通称、頼久寺と呼ばれている。
小堀遠州*の作と伝わる蓬莱式枯山水庭園は「鶴亀の庭」と呼ばれ、遠州が備中国奉行として当地に赴任していた1605(慶長10)年頃のものとされる。頼久寺は江戸時代の天保年間の大火により、一切の伽藍を焼失している。庭園も後年の修補が多いが、主要部には江戸時代初期の手法が見られ、全体としてすぐれた意匠を残していることから、1974(昭和49)年に国の名勝に指定された。2009(平成21)年には本堂や書院などが指定地に追加され、寺域全体が名勝に指定されている。
小堀遠州*の作と伝わる蓬莱式枯山水庭園は「鶴亀の庭」と呼ばれ、遠州が備中国奉行として当地に赴任していた1605(慶長10)年頃のものとされる。頼久寺は江戸時代の天保年間の大火により、一切の伽藍を焼失している。庭園も後年の修補が多いが、主要部には江戸時代初期の手法が見られ、全体としてすぐれた意匠を残していることから、1974(昭和49)年に国の名勝に指定された。2009(平成21)年には本堂や書院などが指定地に追加され、寺域全体が名勝に指定されている。
みどころ
頼久寺は石垣の上に白い土塀を巡らし、広い石段と鉤型のアプローチがまるで城のようである。本堂の奥(東側)が書院、本堂の南側が庫裏になっていて、庫裏の奥と建物に囲まれた凹型の部分が庭園になっている。枯山水は書院の南側の縁側から眺める構成になっており、海を表す白砂の中央に鶴島、その左奥に亀島を配し、生け垣と3段の長方形の刈込によって庭園の内と外を仕切り、背後に望む愛宕山を借景に取り入れている。この庭園独特で最大の見どころは、書院奥の山畔に沿ったサツキの大刈込だ。豪壮で立体感があり、まるで巨大な波がうねっているように見えることから「青海波」と呼ばれている。庫裏の裏手側にも縁がついており、角度を変えて、庭全体をじっくりと眺めたい。初夏のサツキの開花時はとても華やかだ。
小堀遠州の父、小堀正次は1600(慶長5)年に備中国を領したが、1604(慶長9)年に逝去し、遠州が遺領を継いだ。当時、備中松山城は荒廃していたため、遠州は頼久寺を仮の居館とし、郷里の近江国浅井郡に移封される1619(元和5)年まで、この地で執務にあたった。頼久寺の作庭に遠州が関わったとされる明確な記録は残っていないものの、この地とのゆかりは深いと考えられる。書院前の自然石と切り石を並べた軒露地など、後年に見られる遠州独特の手法が展開されており、遠州の作庭の原点が見える庭としても注目される。
小堀遠州の父、小堀正次は1600(慶長5)年に備中国を領したが、1604(慶長9)年に逝去し、遠州が遺領を継いだ。当時、備中松山城は荒廃していたため、遠州は頼久寺を仮の居館とし、郷里の近江国浅井郡に移封される1619(元和5)年まで、この地で執務にあたった。頼久寺の作庭に遠州が関わったとされる明確な記録は残っていないものの、この地とのゆかりは深いと考えられる。書院前の自然石と切り石を並べた軒露地など、後年に見られる遠州独特の手法が展開されており、遠州の作庭の原点が見える庭としても注目される。
補足情報
*小堀遠州(政一)(1579~1647):江戸時代初期の武将で、江戸幕府の奉行として多くの建築や造園を手がけた。1608(慶長13)年に従五位下遠江守に叙任されて以降、遠江にちなみ遠州と通称された。古田織部に師事して茶の湯を学び、3代将軍家光の茶道師範を務めるなど大名茶人としても活躍した。
関連リンク | 天柱山頼久寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
天柱山頼久寺(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 高梁市観光ガイド(一般社団法人高梁市観光協会)(WEBサイト) 「岡山県の歴史散歩」山川出版社 |
2024年10月現在
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