熊野神社
瀬戸中央自動車道水島ICから県道21号線を岡山方面に1kmほど、蟻峰山(ぎほうざん)の山裾にある、紀州の熊野権現を勧請したと伝わる古社。近くの五流尊滝院とは明治まで神仏混交で、修験者が奉仕してきた。社伝によれば、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ、役行者ともいう)* が699(文武天皇3)年、呪術で民衆を惑わすという科で伊豆に流された際、5人の高弟らが紀州熊野権現の御神体を守護して瀬戸内海へ逃れ、各地を放浪した後、児島の柘榴(ざくろ)浜(現在の倉敷市児島下之町)に上陸、役小角が赦免となった701(大宝元)年、神託を得てこの地に遷座したとされる。740(天平12)年には聖武天皇が児島一円を社領として寄進し、761(天平宝字5)年には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、付近の木見に諸興寺と新宮を、山村に由伽寺と那智宮(現・蓮台寺、由加神社)を建て、紀州の熊野に対し、新(いま)熊野三山と呼ばれた。
本殿は、形の異なる6棟の社殿が南面して横一列に並び、12の神座に天照大御神以下の神々が祀られている。向かって左から第三・一・二・四・五・六殿と並ぶ。応仁の乱(1469年)で堂宇を焼失するが、1497(明応6)年に本殿が再建され、彩色を施された第二殿(国指定重要文化財)が、その時建立されたものといわれる。その他の神殿は白木で、1647(正保4)年に岡山藩主池田光政によって再建されたものと伝えられる。第一、二殿は春日造、第三殿は母屋造、第四から六殿は流造で、第六殿に地主神を祀るのは紀州熊野権現とよく似た構成である。第二殿は正面1間(2.56m)、奥行2間(3.78m)で、正面に1間の向拝がつく。柱・垂木・虹梁(こうりょう)*・破風などは丹塗りで、木口に黄土を塗り、板壁や裏板は胡粉で白塗りされている。正面の虹梁上には雲と日輪の彫刻を施した蟇股(かえるまた)を置き、ゆるやかに曲線を描く破風と二重に仕組まれた垂木配列や正面の吹寄格子が美しく調和している。室町時代中期の建築様式をよく示しており、小ぶりながら、華やかさのなかに気品を感じられる建物である。
本殿は、形の異なる6棟の社殿が南面して横一列に並び、12の神座に天照大御神以下の神々が祀られている。向かって左から第三・一・二・四・五・六殿と並ぶ。応仁の乱(1469年)で堂宇を焼失するが、1497(明応6)年に本殿が再建され、彩色を施された第二殿(国指定重要文化財)が、その時建立されたものといわれる。その他の神殿は白木で、1647(正保4)年に岡山藩主池田光政によって再建されたものと伝えられる。第一、二殿は春日造、第三殿は母屋造、第四から六殿は流造で、第六殿に地主神を祀るのは紀州熊野権現とよく似た構成である。第二殿は正面1間(2.56m)、奥行2間(3.78m)で、正面に1間の向拝がつく。柱・垂木・虹梁(こうりょう)*・破風などは丹塗りで、木口に黄土を塗り、板壁や裏板は胡粉で白塗りされている。正面の虹梁上には雲と日輪の彫刻を施した蟇股(かえるまた)を置き、ゆるやかに曲線を描く破風と二重に仕組まれた垂木配列や正面の吹寄格子が美しく調和している。室町時代中期の建築様式をよく示しており、小ぶりながら、華やかさのなかに気品を感じられる建物である。
みどころ
周囲にこれといった目印もない田舎の集落の奥にある静かな神域。役小角の五人の弟子が開いた五院(建徳院・伝法院・太法院・尊瀧院・報恩院)の流れをくむ、五流尊滝院(ごりゆうそんりゅういん)とは明治まで神仏習合だった。現在の五流尊瀧院は熊野神社より南に400mほど行ったところにあるが、もともとは神社に隣接していたと伝えられ、三重塔、鐘楼などが神社に接して建つ。明治時代の神仏分離令により、十二社権現は熊野神社となり、五流尊瀧院は修験道廃止令もあり天台宗寺院となったが、第二次世界大戦後、修験道を再興して日本修験宗の本庁となった。かつては一帯が社領だったのであろうが、今では熊野神社と五流尊瀧院の間に民家や農地が入り込み、真浄院を通る路地を経由することで、二つを同時に散策することができる。
現在、陸続きの半島となっている児島は、かつては吉備の穴海と呼ばれた内海で隔てられた島だった。古くは、源平合戦の藤戸合戦(1184年)*の功で佐々木盛綱が児島波佐川荘(現、岡山市南区長崎灘崎町迫川)などの地頭職を得たことに対し、児島一帯を所領していた十二社権現が抗議し、返還を求めた記録が残っている。また、承久の乱(1221年)では、後鳥羽上皇の皇子、桜井宮覚仁親王(熊野三山検校・新熊野検校)が難を逃れてこの地に下向し、さらに隠岐に遠流となった後鳥羽上皇に連座して、同じく皇子の冷泉宮頼仁親王が児島に配流となっている。三重塔の南にある五流尊滝院宝塔(国指定重要文化財)は、1240年、後鳥羽上皇の一周忌に頼仁親王と覚仁親王が建立したものという。頼仁親王は五流尊流院に庵室を結び、現在までその子孫が跡を継ぐ。頼仁親王の陵は諸興寺のあった木見にあり、現在は宮内庁の管轄になっている。
昔の金比羅往来*は、早島-茶屋町-天城-藤戸を経て、由加にある瑜伽大権現へ通じていた。熊野神社はこの途中にあり、瑜伽山と金毘羅の両参りの参拝客が立ち寄った。現在の静けさからは想像しがたいが、瀬戸内の歴史と文化に深く関わる場所である。
現在、陸続きの半島となっている児島は、かつては吉備の穴海と呼ばれた内海で隔てられた島だった。古くは、源平合戦の藤戸合戦(1184年)*の功で佐々木盛綱が児島波佐川荘(現、岡山市南区長崎灘崎町迫川)などの地頭職を得たことに対し、児島一帯を所領していた十二社権現が抗議し、返還を求めた記録が残っている。また、承久の乱(1221年)では、後鳥羽上皇の皇子、桜井宮覚仁親王(熊野三山検校・新熊野検校)が難を逃れてこの地に下向し、さらに隠岐に遠流となった後鳥羽上皇に連座して、同じく皇子の冷泉宮頼仁親王が児島に配流となっている。三重塔の南にある五流尊滝院宝塔(国指定重要文化財)は、1240年、後鳥羽上皇の一周忌に頼仁親王と覚仁親王が建立したものという。頼仁親王は五流尊流院に庵室を結び、現在までその子孫が跡を継ぐ。頼仁親王の陵は諸興寺のあった木見にあり、現在は宮内庁の管轄になっている。
昔の金比羅往来*は、早島-茶屋町-天城-藤戸を経て、由加にある瑜伽大権現へ通じていた。熊野神社はこの途中にあり、瑜伽山と金毘羅の両参りの参拝客が立ち寄った。現在の静けさからは想像しがたいが、瀬戸内の歴史と文化に深く関わる場所である。
補足情報
*役小角:生没年不詳。奈良時代の山岳呪術者。大和国葛城山で修行し、金峰山や大峰を開く。呪術にすぐれた神仙として知られ、平安時代以降、密教と山岳信仰が習合し、修験道(山伏)が発展するにつれて一般の信仰を受け、全国の霊山幽谷に多くの伝説を残す。
*虹梁:虹のように上方にやや反りを持たせてある梁
*藤戸合戦:対岸の児島に陣取った平家に対し、源氏方の佐々木盛綱が藤戸の浅瀬を馬で渡って先陣を切ったことにより源氏が大勝した。
*金毘羅往来:岡山藩の中心部から早島、茶屋町、藤戸、由加山、児島、下津井を経由して、渡船により金毘羅街道の丸亀街道に至る道。
*2003年9月、熊野神社の拝殿であり、修験者の修行場、寄宿舎として建てられ、その一部を神社の社務所として使用していた五流尊流院所有の長床(1768年建造)が失火により全焼し、2007年10月に再建した。
*虹梁:虹のように上方にやや反りを持たせてある梁
*藤戸合戦:対岸の児島に陣取った平家に対し、源氏方の佐々木盛綱が藤戸の浅瀬を馬で渡って先陣を切ったことにより源氏が大勝した。
*金毘羅往来:岡山藩の中心部から早島、茶屋町、藤戸、由加山、児島、下津井を経由して、渡船により金毘羅街道の丸亀街道に至る道。
*2003年9月、熊野神社の拝殿であり、修験者の修行場、寄宿舎として建てられ、その一部を神社の社務所として使用していた五流尊流院所有の長床(1768年建造)が失火により全焼し、2007年10月に再建した。
関連リンク | 日本第一熊野神社(WEBサイト) |
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参考文献 |
日本第一熊野神社(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 岡山県神社庁(WEBサイト) 「岡山県の歴史散歩」山川出版社 |
2024年10月現在
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