津山市城東町並み
津山の城下町は、津山城を築いた初代津山藩主森 忠政*1により、吉井川の左岸(北側)に出雲街道*2に沿って東西に細長く形成された。城の周辺に武家地、街道沿いに町人地、町の外縁部に社寺を配置している。城下の出雲街道には、約3kmの範囲に18カ所の鍵曲がり(かいまがり)*3が設けられており、軍事色の強い城下町であった。大きな戦禍に見舞われなかったこともあり、城の東西に、近世から近代にかけて築かれた古い街並みや建造物が残っている。2013(平成25) 年に東側の城東地区が、2020(令和2)年に西側の城西地区が、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
城東地区は宮川大橋の東、橋本町、林田町(はいだまち)、勝間田町、中之町、西新町、東新町の出雲街道沿い、約1.2kmを範囲としている。その北側の上之町(うえのちょう)には武家屋敷が残り、丹後山の麓には寺社が集積している。町家は切妻造平入りを基本とし、厨子(つし)二階*4、出格子窓、虫籠窓、なまこ壁、袖壁などの意匠が見られる。家の表の壁を街道の側溝ぎりぎりになるように建てているため、1階の庇の位置が隣同士で揃っているのが特徴。街道の東端・中程・西端の3か所に鍵折れを設けている。西新町から東新町にかけてはとくに古い街並みがよく残っており、電線が地中化され、観光地としての美しい整備が進んでいる。
城東地区は宮川大橋の東、橋本町、林田町(はいだまち)、勝間田町、中之町、西新町、東新町の出雲街道沿い、約1.2kmを範囲としている。その北側の上之町(うえのちょう)には武家屋敷が残り、丹後山の麓には寺社が集積している。町家は切妻造平入りを基本とし、厨子(つし)二階*4、出格子窓、虫籠窓、なまこ壁、袖壁などの意匠が見られる。家の表の壁を街道の側溝ぎりぎりになるように建てているため、1階の庇の位置が隣同士で揃っているのが特徴。街道の東端・中程・西端の3か所に鍵折れを設けている。西新町から東新町にかけてはとくに古い街並みがよく残っており、電線が地中化され、観光地としての美しい整備が進んでいる。

みどころ
津山城跡の東裾を流れる宮川に架かる宮川大橋の西詰には、かつて東の大番所が置かれていた。橋を渡り、城下町らしい鍵曲がりを経て旧出雲街道に入ると、両側には出格子窓、なまこ壁、虫籠窓、袖壁などを残す商家が軒を連ねる。町並みの中央よりやや東寄りの西新町には、江戸時代の豪商の屋敷だった「城東むかし町家(旧梶原邸)」、津山ゆかりの洋学者*5の業績を紹介する「津山洋学資料館」、洋学者・箕作阮甫*6の旧宅などがある。また、町並みの西寄り、勝間田町にある、造り酒屋の建物群を完全に残す「旧苅田(かんだ)酒造」と「旧苅田家住宅」も見どころのひとつ。
城西地区の西寺町は城下最大の寺院集積地で、江戸時代には22もの寺院が並んでいた(現在は12か寺)。1898(明治31)年の鉄道開通(津山~岡山駅間)以降、駅が町の西側(現在の津山口駅)にできたことから大いに発展したため、明治から大正時代に建てられた建造物も目立つ。1937(昭和12)年頃、自動車社会に対応するため、道路にはみ出た軒を切る「軒切り」を町内一斉に実施したとされ、町家の1階の庇が短く揃えられている。
市内の飲食店のメニューには、独特の肉食文化*7や洋学者の宇田川榕菴(ようあん)が「珈琲」という当て字を考案したエピソードなどが反映されていて興味深い。
城西地区の西寺町は城下最大の寺院集積地で、江戸時代には22もの寺院が並んでいた(現在は12か寺)。1898(明治31)年の鉄道開通(津山~岡山駅間)以降、駅が町の西側(現在の津山口駅)にできたことから大いに発展したため、明治から大正時代に建てられた建造物も目立つ。1937(昭和12)年頃、自動車社会に対応するため、道路にはみ出た軒を切る「軒切り」を町内一斉に実施したとされ、町家の1階の庇が短く揃えられている。
市内の飲食店のメニューには、独特の肉食文化*7や洋学者の宇田川榕菴(ようあん)が「珈琲」という当て字を考案したエピソードなどが反映されていて興味深い。

補足情報
*1 森 忠政(1570~1634):織田氏に仕えた美濃国金山城主、森 可成の六男。本能寺の変で有名な森 蘭丸の弟。
*2 出雲街道:姫路を起点として中国山地を横断し、出雲(松江)に至る旧街道。「出雲往来」「出雲往還」などとも呼ばれる。
*3 鍵曲がり(かいまがり):敵の侵入を防ぐため、和鍵のように直角に曲げて先を見通せないようにした道。かぎの手、かぎ型道路ともいう。
*4 厨子(つし)二階:江戸時代から明治後期までに建てられた2階の天井が低い町家の様式で、中二階ともいう。2階部分は主に物置や使用人の部屋として使われ、開口部として虫籠窓を伴うことが多い。
*5 津山の洋学:江戸時代末期、津山は多数の洋学者を輩出し、明治維新前後の日本の近代化に貢献した。杉田玄白に蘭学を学んだ藩医の宇田川玄随や、その養子の玄真、玄真の養子の榕菴(ようあん)、によって基礎が築かれた。
*6 箕作阮甫(みつくり・げんぽ、1799~1863):1823(文政6)年江戸に出て、宇田川玄真から蘭学を学んだ後、津山藩医から幕府天文方の翻訳員・蕃書調所教授に任ぜられ、洋学者として初めて幕臣に列せられた。
*7 津山は古くから牛馬の流通が盛んな土地で、明治以前から養生食として肉食が認められていた。B級グルメの「ホルモンうどん」が有名だが、干し肉、そずり鍋(牛骨のまわりからそぎ落とした肉を使う)、煮こごり、ヨメナカセ(牛の大動脈)など、調理法や食べる部位に独自の文化が見られる。
*2 出雲街道:姫路を起点として中国山地を横断し、出雲(松江)に至る旧街道。「出雲往来」「出雲往還」などとも呼ばれる。
*3 鍵曲がり(かいまがり):敵の侵入を防ぐため、和鍵のように直角に曲げて先を見通せないようにした道。かぎの手、かぎ型道路ともいう。
*4 厨子(つし)二階:江戸時代から明治後期までに建てられた2階の天井が低い町家の様式で、中二階ともいう。2階部分は主に物置や使用人の部屋として使われ、開口部として虫籠窓を伴うことが多い。
*5 津山の洋学:江戸時代末期、津山は多数の洋学者を輩出し、明治維新前後の日本の近代化に貢献した。杉田玄白に蘭学を学んだ藩医の宇田川玄随や、その養子の玄真、玄真の養子の榕菴(ようあん)、によって基礎が築かれた。
*6 箕作阮甫(みつくり・げんぽ、1799~1863):1823(文政6)年江戸に出て、宇田川玄真から蘭学を学んだ後、津山藩医から幕府天文方の翻訳員・蕃書調所教授に任ぜられ、洋学者として初めて幕臣に列せられた。
*7 津山は古くから牛馬の流通が盛んな土地で、明治以前から養生食として肉食が認められていた。B級グルメの「ホルモンうどん」が有名だが、干し肉、そずり鍋(牛骨のまわりからそぎ落とした肉を使う)、煮こごり、ヨメナカセ(牛の大動脈)など、調理法や食べる部位に独自の文化が見られる。
関連リンク | 津山市(WEBサイト) |
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参考文献 |
津山市(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 岡山観光WEB(公益社団法人岡山県観光連盟)(WEBサイト) 「岡山県の歴史散歩」山川出版社 |
2024年10月現在
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