出雲大社いづもおおやしろ(いづもたいしゃ)

出雲平野の西北端、島根半島の脊稜山地を背にする地にある。
 創建は、『古事記』や『日本書紀』によると、神代、天孫降臨に際し、大国主大神が国土を譲られたのを喜ばれた天照大神が、大国主大神のために広大な宮殿「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を建てたのに始まるという。この折、祭祀を司ったのが天照大神の第2子天穂日命(あめのほひのみこと)といい、その子孫が出雲国造(いずもこくそう)*と伝える。
 古くは杵築大社あるいは杵築宮(きづきのみや)などと呼ばれ、現在の八雲村の熊野大社とともに崇敬を集めた。ヤマト朝廷の出雲制圧が出雲西部から進んだことで、特に重視されるようになり、熊野大社をしのぐようになった。『古事記』『日本初期』の編纂が進む中で、「出雲国譲り神話で、杵築大社の起源を語るようになったと言われている。
 鎌倉末には12郷7浦の社領をもった。豊臣秀吉によって社領を削られてからは御師(おし)*の活動が活発となり、全国に大社信仰が広められた。延喜式神名帳には出雲国出雲郡に「杵築大社」とあり、名神大社に列する。1871(明治4年)に現社名に改称された。
 因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)や国譲り神話などで名高い大国主大神を祭り、伊勢神宮と並称される古社である。松の馬場と呼ばれる老松の並ぶ参道の奥、銅鳥居*をくぐると壮大な拝殿*があり、その後方、八足(やつあし)門*や楼門*越しに、八雲山を背に豪壮な大社造本殿*の千木(ちぎ)が望まれる。2万7000m2あまりの境内には本殿・拝殿のほか、摂社8社・末社3社・文庫・宝庫・彰古館などの建物が立ち、多くの社宝を収める神祜殿(しんこでん)*がある。
 なお、2008(平成20)年から2019(平成31)年にかけて、60年~70年に1度の御修造「平成の大遷宮」により、社殿の修造が行われた。これは、御神体や御神座を仮殿に移し、檜皮葺きの屋根の修復や社殿の修造を行い、再度ご神体を遷座させる一連の行事・祭りを指している。ご神体を仮殿に移していた際には、公開されることのない本殿の内部や大屋根の修理状況などを見学できる機会も設けられた。
 本殿神域の西に素鵞(そが)川、東に吉野川が流れ、さらにその外側、鶴山の麓に千家(せんげ)、亀山の麓に北島の両国造の館がある。国造家は1343(興国4)年、第54代清孝国造のとき千家・北島両家に分かれ以後祭事を分担してきた*。千家現宮司は第84代にあたり、現在では千家家は出雲大社教、北島家は出雲教を主宰している。
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みどころ

出雲大社神楽殿にかかる注連縄は、拝殿のものよりも大きく、長さ約13m、重さ5.2tと日本最大級。間近でみるとその迫力に圧倒される。数年に1度、架け替えが行われ、飯石郡飯南町で作られている。
 出雲大社の参拝方法は「二礼 四拍手 一礼」で、4回手を叩くところが独特である。
 旧暦の神在月*に行われる「神迎神事」は出雲大社の西・稲佐の浜で行われ、神々を連れた一行はその後、「神迎えの道」を通り、出雲大社神楽殿へと向かう。ここで「神迎祭」が行われた後、神々は出雲大社境内にある「東西十九社*」に鎮まられる。その後、参集した神々が様々な縁結びの神議り(かみはかり)をされる神在祭の諸祭事が行われる。神議りが行われるのは、稲佐浜へ行く途中にある小さな境外摂社上の宮である。
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補足情報

*出雲国造(いずもこくそう):天穂日命(あめのほひのみこと)を始祖とする出雲地方の豪族。大和朝廷に服属後、国造となり、この地の祭祀を司った。南北朝時代に千家、北島の2家に分れ、明治にいたってともに男爵を授けられた。国造とは、大化改新以前において大和朝廷より任じられた地方官で、おもにその地の豪族がこれになった。改新後多くは郡司となり、また神祇のみを司る者として国造の名称は存続した。普通「くにのみやつこ」と読むが、のち「こくぞう」と呼ばれ、出雲では「こくそう」と呼ぶ。出雲のほかに紀伊国造と阿蘇国造が今日にその系譜を伝えている。
*御師:御祈師(おんいのりし)・御詔刀師(おんのとし)の略で「おんし」ともいい、伊勢神宮や富士山浅間神社などに認められる神職である。各地を歩いてその属する神社の信仰を広め、参拝者を勧誘し、宿舎の提供も行った。
*銅鳥居:大社正門に立っている高さ約6m、柱周囲約2mの青銅製の鳥居である。長州藩主毛利綱広が1666(寛文6)年に寄進したもので、両側から石組の荒垣がつづいている。
*拝殿:青銅鳥居を入った正面にある。大社造をもとに、1959(昭和34)年再建されたもので高さ約13m、桧造の向拝にかかる注連縄は周囲4m、長さ8m、重さ1500㎏と巨大である。一般の神社の注連縄は、社殿に向かって右を綯始(ないはじめ)とし、左を綯終(ないおわり)とするが、出雲大社では左を綯始とする。これは出雲大社では向かって左を上位とするためといわれる。
*八足門(やつあしもん):拝殿の後方石段の上に立つ。東西に回廊がつづき、さらに瑞垣が連なっている。東の回廊上には観祭楼があり、国造がここから祭儀を見守ったといわれ、八足門内の左右には門神社(門番の役割を果たし、久多美神と宇治神を祭る)がある。
*楼門:本殿の前にある重層入母屋造、約7.3mの門である。精密な彫刻をもち、両側に玉垣がのびている。門内東西には神饌(しんせん)所が立っている。
*大社造本殿:玉垣内の大粒の玉石の上に立ち、主神大国主大神のほか5神を祭っている。大社造と呼ばれるその建築は、“雲に分け入る千木”と評されるようにきわめて雄大で、高さ24m余りと神社建築中に比類をみない。昔はさらに高く、東大寺大仏殿をしのぎ約50mもあったといわれる。源為憲が970(天禄元)年に著した『口遊(くちずさみ)』では「雲太、和二、京三と伝えるのは雲太は出雲大社、和二は東大寺、京三は大極殿であろう」としている。『千家家文書』によると3本の大木を鉄の輪で結わえて柱としたとあり、また出雲大社設計図でもある「金輪御造営差図(複製が島根県立古代出雲歴史博物館」に展示)」には、その様子が描かれている。さらに2000(平成12)年に境内で出土した宇豆柱(島根県立古代出雲歴史博物館」に展示)により、高層神殿が存在したという話も現実味を帯びている。現本殿は1744(延享元)年出雲藩主松平直政によって造営され、1809(文化6)年以後3度の修理を経ている。天井には7つの雲が描かれている。瑞垣内にはほかに本殿の西に大国主神の妃多紀理比売命(たぎりひめのみこと)を祭る筑紫社、東には正妻須勢理比売命(すせりひめのみこと)を祭る御向社(みむかいのやしろ)と、大国主命の神を救った蚶貝比売命(きさがいひめみこと)・蛤貝比売命(うむがいひめみこと)(大国主命が八十神によって大やけどを負わされたとき、これを助けた2神)を祭る天前社(あまさきのやしろ)がある。
*神祜殿(しんこでん):拝殿の東側にあり、1981(昭和56)年12月に建設された宝物館で、国宝の秋野鹿蒔絵(鎌倉時代の作。萩・女郎花(おみなえし)などに鹿を配し螺鈿(らでん)を置き、化粧具の箱という)手箱をはじめ、足利義政寄進の甲胄、後醍醐天皇の宝剣代綸旨など多くの社宝を展示している。なお氏社の北にある彰古館にも古地図や古文書類が所蔵されている。
*第80代国造千家尊福は東京府知事、司法大臣を歴任、「年のはじめのためしとて……」という唱歌、「一月一日」の作者でもある。詩人千家元麿はその子にあたる。
*神在月:旧暦10月のこと。この月に全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲に集まるため、出雲では神在月(かみありづき)、逆に全国の村々には神が不在となるために神無月という。神々が集う出雲の各神社では「神迎祭(かみむかえさい)」から始まり「神在祭(かみありさい)」、そして全国に神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」が行われる。
*東西十九社(じゆうくしや):瑞垣の外、東西に1棟ずつある細長い建物で、寛文年間(1661~73)ごろの創建といい、現社殿は1744(延享元)年の造営である。八百万(やおろず)の神の遥拝所で各棟には19の扉があり、神在祭の折には神々の宿舎となる。