和歌山城
和歌山城は関西国際空港から南方に約24km、和歌山駅から西方に約2km、和歌山市中央部の丘に位置する。海上から見ると丘の稜線が、虎が伏せたように見えることから、虎伏山竹垣城の別名をもつ。
1585(天正13)年、紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に命じ、藤堂高虎や羽田正親一庵法印が普請奉行となり築城した。その後、秀長は郡山城(奈良県大和郡山市)を居城としたため、家臣の桑山重晴が和歌山城代となり、やがて秀長家が途絶えると桑山氏が城主となった。1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した浅野幸長がその功によって和歌山に転封され、大規模な整備に取り掛かった。連立式天守や御殿の造営を行い、本町通りを大手筋として城下町を整備した。その後、1619(元和5)年に徳川頼宣が入国し、御三家紀州徳川家の居城となる。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め立て、南の丸・砂の丸を増築し、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。
天守は浅野家が建造した3層3階建の姿が現在にも残っている。ただし、1798(寛政10)年に黒板張から白壁に改められた。その天守は1846(弘化3)年に落雷で焼失したが、御三家ということで特別に認められ1850(嘉永3)年にほぼ元のまま再建された。その後1945(昭和20)年には、第2次世界大戦の和歌山大空襲で焼失するが、市民からの要望もあり、1958(昭和33)年、外観は往時のままに鉄筋コンクリートで復元された。
往時を偲ぶものとして、戦火をくぐり抜けた岡口門や復元された一ノ橋、大手門のほか、石垣や堀がある。天守の北側には、藩主が自然風雅を楽しんだ西之丸庭園が広がる。
1585(天正13)年、紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に命じ、藤堂高虎や羽田正親一庵法印が普請奉行となり築城した。その後、秀長は郡山城(奈良県大和郡山市)を居城としたため、家臣の桑山重晴が和歌山城代となり、やがて秀長家が途絶えると桑山氏が城主となった。1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した浅野幸長がその功によって和歌山に転封され、大規模な整備に取り掛かった。連立式天守や御殿の造営を行い、本町通りを大手筋として城下町を整備した。その後、1619(元和5)年に徳川頼宣が入国し、御三家紀州徳川家の居城となる。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め立て、南の丸・砂の丸を増築し、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。
天守は浅野家が建造した3層3階建の姿が現在にも残っている。ただし、1798(寛政10)年に黒板張から白壁に改められた。その天守は1846(弘化3)年に落雷で焼失したが、御三家ということで特別に認められ1850(嘉永3)年にほぼ元のまま再建された。その後1945(昭和20)年には、第2次世界大戦の和歌山大空襲で焼失するが、市民からの要望もあり、1958(昭和33)年、外観は往時のままに鉄筋コンクリートで復元された。
往時を偲ぶものとして、戦火をくぐり抜けた岡口門や復元された一ノ橋、大手門のほか、石垣や堀がある。天守の北側には、藩主が自然風雅を楽しんだ西之丸庭園が広がる。

みどころ
天守閣内部は1・2階に紀州徳川家や紀州藩主ゆかりの品が展示され、3階からは友ヶ島や淡路島、徳島県、和歌山市街の素晴らしい眺望を、360度見渡すことができる。天守前広場の東には、2017(平成29)年に整備された本丸御殿跡の展望スポットがある。本丸御殿跡にある階段を上った広場にはベンチも設置され、大・小天守をゆったりと眺めることができる。和歌山城内*1のあちこちで見られる石垣にも特色があり、時代の変遷とともに石積の方法も変化していることがわかる。また和歌山城の石垣には転用石とともに、140種にも及ぶ刻印が見られる。何のための刻印かは諸説あり不明。殿様やお付きのものが二の丸と西の丸を行き来するために架けられた「御橋廊下(おはしろうか)」は、屋根や壁を設け、外からは見えないつくりとなっており、国内でも珍しい斜めに架けられた廊下橋で、実際に渡ることもできる。
城内は勾配があるが、天守のみならず西之丸庭園は自然地形を利用しているため起伏に富み、池・滝・渓流や中島を配した豪快な作庭。和歌山城において西の丸は殿様が数寄や風雅を楽しんだ場所であったという。紅葉が見事で「紅葉渓庭園」とも呼ばれている。庭園北側の茶室紅松庵*2では抹茶と和菓子がいただける。
城内は勾配があるが、天守のみならず西之丸庭園は自然地形を利用しているため起伏に富み、池・滝・渓流や中島を配した豪快な作庭。和歌山城において西の丸は殿様が数寄や風雅を楽しんだ場所であったという。紅葉が見事で「紅葉渓庭園」とも呼ばれている。庭園北側の茶室紅松庵*2では抹茶と和菓子がいただける。

補足情報
*1 和歌山城内:公園内には、「おもてなし忍者」が随所に潜んでおり、写真撮影や案内、助けが必要な人のサポートをしてくれる。
*2 茶室紅松庵:徳川時代、数寄屋が建っていた場所に、1974(昭和49)年5月に和歌山市出身の松下幸之助氏の寄贈により新築された。徳川以前の浅野時代にも、数寄屋から書院へ続く書院式茶室があった。現在は、気軽に抹茶と季節のお菓子を楽しめる。
*2 茶室紅松庵:徳川時代、数寄屋が建っていた場所に、1974(昭和49)年5月に和歌山市出身の松下幸之助氏の寄贈により新築された。徳川以前の浅野時代にも、数寄屋から書院へ続く書院式茶室があった。現在は、気軽に抹茶と季節のお菓子を楽しめる。
関連リンク | 和歌山市 和歌山城整備企画課(WEBサイト) |
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参考文献 |
和歌山市 和歌山城整備企画課(WEBサイト) 和歌山市観光協会(WEBサイト) 文化遺産オンライン(文化庁)(WEBサイト) 和歌山市の文化財(WEBサイト) |
2025年02月現在
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