粉河寺こかわでら

JR和歌山線粉河駅から北へ約1km、門前町を15分ほど歩いたところにある。奈良時代末、770(宝亀元)年の開創と伝えられ、中世には高野山・根来寺に次ぐ僧兵を抱え、堂宇550、寺領四万余石を有して隆盛を極めたという。1585(天正13)年、羽柴秀吉の紀州攻めにあって堂塔を焼失したが、後に江戸時代に紀州徳川家の援助を受けて再興した。
 鮮やかな丹塗りの大門は三間楼門で、和歌山県では、高野山・根来寺に次ぐ威容を誇る。1706(宝永4)年創建された独特の総欅造りで、金剛力士は仏師春日の作と云われる。尊像には桂の巨木を用いている。
 本堂は江戸時代中期となる1720(享保5)年に再建。間口33m、奥行25m、高さ33mの大堂で、秘仏の本尊十一面千手観音立像を祀る。欅材による建築で西国三十三ヶ所の中でも最大規模となっている。手前の礼堂は入母屋造単層の一重屋根、奥の正堂は入母屋造重層の二重屋根であり、礼堂と正堂が結合し組み込まれた特異な構造による複合仏堂となっている。
 中門は1832(天保3)年の建立で、三間一戸の楼門。軒まわりまで良質の欅材で繊細な建物に仕上げており、四天王を祀る。「風猛山」の扁額は、紀州徳川10代藩主、治宝侯の直筆である。
 千手堂は宝形造りの三間堂、細部様式では本堂と一脈相通ずる面を持っている。1760(宝暦10)年の建立で、正面に十一面千手観世音菩薩(秘仏)両側の脇壇には紀州歴代藩主とそのゆかりの人々の位牌を祀っている。
 本寺で有名な粉河寺縁起絵巻*1は縦約30cm、長さ約20mの鎌倉初期の絵巻物である。鳥羽僧正筆と伝え、その真偽は不明だが、自由闊達な筆致で本尊にまつわる縁起を描いている。
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みどころ

JR粉河駅から北へ、古風な家なみを残す門前通りを抜けると朱色の豪壮な大門へ出る。大門からは石畳の参道が鉤の手に曲りながら境内の奥へとのびている。参道の左側に本坊である御池坊*2・童男堂*3ほか大小20余の諸堂が並び、右側に流れる小川が縁起絵巻にも登場する粉河である。やがて中門をくぐると、その奥に名勝粉河寺庭園や壮大な本堂がある。また、粉河寺の背後には、紀州徳川家ゆかりの十禅律院がある。本尊の十一面千手観音は秘仏のため拝めないが、内陣には眷属である二十八部衆と風神雷神が祀られている。粉河寺縁起絵巻の摸本と左甚五郎作と伝わる「野荒しの虎」もみどころ。
 粉河寺庭園は本堂の前方、石段の左右にある桃山時代の枯山水庭園。本堂前の崖地を利用した紀州の青石(緑泥片岩)の石組と、サツキ・ソテツの植栽が見事である。本堂前の左右の崖地に築庭された庭園は、日本の庭園の中でも前例のない様式で珍しい。巨石を自由自在に使いこなし、豪快な造形美は、参拝者の目を奪う。
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補足情報

*1 粉河寺縁起絵巻:粉河寺の草創にまつわる縁起を描くもので、前半(二段)は、猟師の発願によって千手観音堂が建立された由来、後半(三段)は観音の化身が河内の長者の娘の病を癒し、それに感謝して一族皆出家して、粉河の別当となったという霊験物語が描かれている。ひとつの物語を長い画面に展開する形式をとり、観音堂と猟師の踞木とを繰り返し同じ形で描く画面構成法や、勁直な線描による樹木、単純な形態の山容など全体に古風で素朴な味わいがある。
*2 御池坊:幕末に大和絵の名手冷泉為恭が潜居した御池書院がある。
*3 童男堂:徳川吉宗侯寄進の建築、本尊霊験の童男大士を祭る。