紀伊国分寺跡
紀伊国分寺跡はJR和歌山線下井阪駅より北へ約850mに位置する。
紀伊国分寺は、聖武天皇が741(天平13)年に発した「国分寺建立の詔」により全国68か国に設置された僧寺の一つで、756(天平勝宝8)年には寺院としての形態を整えていたと考えられる。2町四方(約218m四方)の寺域を有し、塔や金堂、講堂などの伽藍が整備された。塔跡には、心礎のほか16個の礎石が残存しており、方3間の七重の塔が建てられていたと推定されている。879(元慶3)年には全ての建物が焼失したが、金堂や講堂、僧房は数回にわたって再建されたことが発掘調査の結果から判明している。発掘調査では、伽藍を示す遺構が確認された他、奈良時代以降の多量の瓦や食器類などが出土している。現在は「史跡紀伊国分寺跡歴史公園」として整備され、主要伽藍の瓦積基壇が復元されている。また、奈良時代の講堂跡には、1700(元禄13)年に国分寺本堂が建てられ、歴史を今に伝えている。
隣接する紀の川市歴史民俗資料館では、発掘調査で見つかった紀伊国分寺の関連資料のほか、紀の川市の歴史を伝える考古資料や民俗資料などが展示されている。
紀伊国分寺は、聖武天皇が741(天平13)年に発した「国分寺建立の詔」により全国68か国に設置された僧寺の一つで、756(天平勝宝8)年には寺院としての形態を整えていたと考えられる。2町四方(約218m四方)の寺域を有し、塔や金堂、講堂などの伽藍が整備された。塔跡には、心礎のほか16個の礎石が残存しており、方3間の七重の塔が建てられていたと推定されている。879(元慶3)年には全ての建物が焼失したが、金堂や講堂、僧房は数回にわたって再建されたことが発掘調査の結果から判明している。発掘調査では、伽藍を示す遺構が確認された他、奈良時代以降の多量の瓦や食器類などが出土している。現在は「史跡紀伊国分寺跡歴史公園」として整備され、主要伽藍の瓦積基壇が復元されている。また、奈良時代の講堂跡には、1700(元禄13)年に国分寺本堂が建てられ、歴史を今に伝えている。
隣接する紀の川市歴史民俗資料館では、発掘調査で見つかった紀伊国分寺の関連資料のほか、紀の川市の歴史を伝える考古資料や民俗資料などが展示されている。

みどころ
2町四方の寺域の大半が国指定史跡となっており、約32,200m2が歴史公園として整備され開放されている。公園の中央には江戸時代に建てられた本堂が建ち、塔跡には創建当時の礎石が原位置をとどめ、往時の姿を偲ばせている。
また、隣接する紀の川市歴史民俗資料館では、紀伊国分寺の発掘調査により出土した資料や1/100スケールの模型を展示している。その他にも、紀の川市の成り立ちから現在に至る歴史をわかりやすく展示物で紹介している。
また、隣接する紀の川市歴史民俗資料館では、紀伊国分寺の発掘調査により出土した資料や1/100スケールの模型を展示している。その他にも、紀の川市の成り立ちから現在に至る歴史をわかりやすく展示物で紹介している。
関連リンク | 紀の川市 生涯学習課(WEBサイト) |
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参考文献 |
紀の川市 生涯学習課(WEBサイト) 文化遺産オンライン(文化庁)(WEBサイト) 和歌山県の歴史散歩(山川出版社) |
2025年02月現在
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