あらぎ島
奇観の棚田として知られている蘭島(あらぎ島)は、紀伊半島の北西部に位置する和歌山県有田川町の東部にある。高野山系に水源をもつ有田川の蛇行と浸食によって形成された扇形の河岸段丘上、約23,000m2の土地に、54枚の水田が広がっている。水田では主にキヌムスメ、ヒトメボレといった品種が栽培されている。また、耕地が限られるこの地では、畦畔や集落の後背斜面地なども山畑に利用され、棕櫚(しゅろ)や茶の木、山椒など特徴的な植生が見られる。特に、ヒメコウゾから生産される和紙は保田紙(やすだがみ)として著名で、かつては現在の海南市にあたる内海(うつみ)などの都市部で和傘の材料とされた。
この地域は1042(長久3)年の高野山文書に記載されるなど早くから集落が営まれていたと考えられている。江戸時代には大庄屋笠松左太夫*1による集落整備と耕地開発が遂行された。笠松は、1655(明暦元)年に3km以上にわたって上湯用水路*2を開削し、蘭島において新田開発を行った。
またここで人々が生活を始めたのは、約4,000年前の縄文時代後期からであり、蘭島を中心とした一体性のある農山村景観は、稲作や林業、和紙生産など、何千年にもわたり絶え間なく繰り返されてきた人々の営みによって生み出され、現在に受け継がれてきた貴重な文化遺産である。1999(平成11)年「日本の棚田百選」、2013(平成25)年には周囲の景観とともに「蘭島及び三田・清水の農山村景観」として国の重要文化的景観に選定された。
この地域は1042(長久3)年の高野山文書に記載されるなど早くから集落が営まれていたと考えられている。江戸時代には大庄屋笠松左太夫*1による集落整備と耕地開発が遂行された。笠松は、1655(明暦元)年に3km以上にわたって上湯用水路*2を開削し、蘭島において新田開発を行った。
またここで人々が生活を始めたのは、約4,000年前の縄文時代後期からであり、蘭島を中心とした一体性のある農山村景観は、稲作や林業、和紙生産など、何千年にもわたり絶え間なく繰り返されてきた人々の営みによって生み出され、現在に受け継がれてきた貴重な文化遺産である。1999(平成11)年「日本の棚田百選」、2013(平成25)年には周囲の景観とともに「蘭島及び三田・清水の農山村景観」として国の重要文化的景観に選定された。

みどころ
全景を楽しむには、まずあらぎ島の北側に設けられた展望台を訪れたい。春は水鏡、夏は爽やかな緑、秋は黄金色、冬は雪景色と、季節ごとに色彩の移ろいを楽しむのも良いだろう。また、あらぎ島展望台のそばには高野街道*4と龍神街道*5の分岐点がある。多くの人や物資が行き交った往時にしばし思いを馳せながら棚田を眺めたい。
また、あらぎ島のすぐ東側に位置する清水地区では、平地の少なさを克服するため、多様な植物が棚田の畦畔を利用して育成・栽培されている。和紙の原料となるコウゾやフキのほか、日本一の生産量を誇る山椒は、湖畔での栽培が起源である。特産の「ぶどう山椒」は緑のダイヤとも呼ばれる。近隣にはしみず温泉や紙すき体験施設などがあり、こちらにも立ち寄ってほしい。
また、あらぎ島のすぐ東側に位置する清水地区では、平地の少なさを克服するため、多様な植物が棚田の畦畔を利用して育成・栽培されている。和紙の原料となるコウゾやフキのほか、日本一の生産量を誇る山椒は、湖畔での栽培が起源である。特産の「ぶどう山椒」は緑のダイヤとも呼ばれる。近隣にはしみず温泉や紙すき体験施設などがあり、こちらにも立ち寄ってほしい。

補足情報
*1 笠松左太夫(かさまつさたゆう):1596~1673年。現在の有田川町清水地区に相当する地域である、江戸時代の山保田(やまやすだ)組の初代大庄屋。私財をなげうって数多くの灌漑水路を開削し、あらぎ島をはじめとした多くの新田開発に取り組んだ郷土の偉人。隠居した1658~1661年(万治年間)には、小峠地区を紙漉き村として開拓し、現在まで続く保田紙を創始した。
*2 上湯用水路(うわゆようすいろ):有田川の支流である湯子川から取水する総延長3.2kmの水路で、現在は約135,000m2の水田を用水している。かつては土の用水路であり、春先には赤土を叩き締めて補修を行う「はがね打ち」と呼ばれる共同作業が行われていたが、1953(昭和28)年の大水害の後にコンクリートの水路へと姿を変えた。笠松左太夫が開削した用水路の一つであり、史料から開発年代が特定できるなど、歴史的な価値も高い。
*3 笠松家住宅:笠松左太夫の分家にあたる家筋で、敷地内には主屋、蔵、長屋、貯蔵小屋の4棟が建ち、建物に囲まれた空間では農作業や紙漉き作業場として広く使用された。主屋は傾斜度の高い茅葺建物で、長屋ではかつて牛が飼われており、農機具庫や貯蔵庫として使用されていた。貯蔵小屋では、この地域の特産物であった棕櫚皮(しゅろかわ)の加工場として利用されていた。谷川から水を引き込んだ水溜めや池は、生活用水や紙漉きなどに利用されていた。現存の建物は主に明治時代のもとと考えられている。
*4 高野街道:大阪方面から紀ノ川を通って高野山へ至る参詣道が高野街道として有名だが、四国、有田方面からあらぎ島のある地域を通って高野山へ至る道も高野街道の一つである。弘法大師が高野山に至ったルートであるとみられており、この街道沿いには弘法大師伝説が多数残されている。また、高野僧の修験道でもあり、高野山への物資が行き交う重要な道であった。
*5 龍神街道:和歌山城から龍神温泉への最短コースとして、紀州徳川の初代城主徳川頼宜が龍神温泉へ湯治に通った。また、この道は塩さばなどの食料品を運んだ重要な生活道でもあり、「さば街道」とも呼ばれていた。
*2 上湯用水路(うわゆようすいろ):有田川の支流である湯子川から取水する総延長3.2kmの水路で、現在は約135,000m2の水田を用水している。かつては土の用水路であり、春先には赤土を叩き締めて補修を行う「はがね打ち」と呼ばれる共同作業が行われていたが、1953(昭和28)年の大水害の後にコンクリートの水路へと姿を変えた。笠松左太夫が開削した用水路の一つであり、史料から開発年代が特定できるなど、歴史的な価値も高い。
*3 笠松家住宅:笠松左太夫の分家にあたる家筋で、敷地内には主屋、蔵、長屋、貯蔵小屋の4棟が建ち、建物に囲まれた空間では農作業や紙漉き作業場として広く使用された。主屋は傾斜度の高い茅葺建物で、長屋ではかつて牛が飼われており、農機具庫や貯蔵庫として使用されていた。貯蔵小屋では、この地域の特産物であった棕櫚皮(しゅろかわ)の加工場として利用されていた。谷川から水を引き込んだ水溜めや池は、生活用水や紙漉きなどに利用されていた。現存の建物は主に明治時代のもとと考えられている。
*4 高野街道:大阪方面から紀ノ川を通って高野山へ至る参詣道が高野街道として有名だが、四国、有田方面からあらぎ島のある地域を通って高野山へ至る道も高野街道の一つである。弘法大師が高野山に至ったルートであるとみられており、この街道沿いには弘法大師伝説が多数残されている。また、高野僧の修験道でもあり、高野山への物資が行き交う重要な道であった。
*5 龍神街道:和歌山城から龍神温泉への最短コースとして、紀州徳川の初代城主徳川頼宜が龍神温泉へ湯治に通った。また、この道は塩さばなどの食料品を運んだ重要な生活道でもあり、「さば街道」とも呼ばれていた。
関連リンク | 有田川町(WEBサイト) |
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参考文献 |
有田川町(WEBサイト) 和歌山県(WEBサイト) 文化遺産データベース(文化庁)(WEBサイト) |
2025年02月現在
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