丹生川上神社(中社)にうかわかみじんじゃ(なかしゃ)

近鉄吉野線大和上市駅から東へ約21km(または近鉄大阪線榛原駅から南へ約21km)、吉野川の支流高見川沿いの谷あいを遡った、河岸に建つ。境内は、川に沿って細長く、杉の大木に守られるようにして一段高い所に拝殿、その奥に本殿、東殿・西殿などの社殿が並ぶ。本殿、東殿・西殿は江戸末期に造替したもの。殿内収蔵の平安時代後期~鎌倉時代にかけての御神像二十躯及び、東殿前の石燈籠*1がともに国の重要文化財に指定されている。
 社伝では、675(天武天皇4)年に祈雨・止雨の神を祀ったのが始まりだと伝えられている。「続日本紀」では763(天平宝字7)年に「奉幣帛四畿内郡神。其丹生河上神者加黒毛馬。旱也」(幣帛を畿内四ヵ国のそれぞれの神に奉り、そのうち丹生川上には加えて黒馬を奉った。日照りであったため)」という記述が見られ、祈雨・止雨神として信仰を集めていたことがわかる。927(延長5)年に撰進された「延喜式」でも名神大社として位置付けられ、平安時代中期以降は、朝廷から特別に崇敬を受けた「二十二社」*2の一社に数えられた。しかしながら、戦国時代以降は奉幣祈願も中断され、丹生川上神社の所在地も不分明*3となった。
 明治維新以降、丹生川上神社の所在地を含め研究調査が行われ、1871(明治4)年に丹生村(現在の下市町)、1896(明治29)年には川上村の神社が対象として取り上げられ、それぞれ官幣大社丹生川上神社下社*4・上社*5とされた。1922(大正11)年になって、東吉野村の「蟻通神社」*6とされた当地の神社が丹生川上神社であるとした研究結果が出され、官幣大社丹生川上神社中社と位置付けられた。この3社をもって官幣大社丹生川上神社としたが、第二次世界大戦後、3社はそれぞれ独立した宗教法人となり運営されている。
#

みどころ

神社の境内の前を流れる高見川はまさに透き通った清流で、振り返ると鬱蒼とした、杉の大木老樹が、社殿を覆うように茂っている。これだけで霊気溢れる神域を感じることができる。一段高みにある、本殿、東殿、西殿は江戸末期のもので、大きな造りではないが、しっかりと手の入った流造の檜皮葺が、彩色も一部残され美しい。
 川筋が違うので、少し遠いが、上社は、本殿は1998(平成10)年の建立で新しいものの、ダム湖の景観が見事で、下社は本殿への階段をもつ独特な社殿を有しているので、水神様3社巡りも一興かもしれない。
#

補足情報

*1 石燈籠:1264(弘長4)年の9月建立 。名工として知られる宋人の伊行吉の作。 高さ2.6m、笠幅73cm。
*2 二十二社:中世に朝廷からの特別な崇敬を受けた神社で、天変地異などの国家の重大事に際しての祈願の折に、朝廷が幣帛を奉る神社をいう。伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・竜田・住吉・日吉・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・貴船と丹生川上の各社。
*3 所在地も不分明:江戸中期の「大和名所図会」では後醍醐天皇が吉野山近くで詠んだ「此里は丹生の川上程近し いのらば晴れよ五月雨の空」(新葉集)という歌を紹介し、「此所より一里ばかり川下に丹生明神の社あり」としてはいるが、場所は明確に記されていない。
*4 下社:近鉄吉野線下市口駅から南へ約12km、吉野川の支流丹生川に面して建つ。拝殿から丹生山山頂に鎮座する本殿まで続く75段の木製階段が特徴。神馬の白馬が境内で飼われている。
*5 上社:近鉄大和上市駅から南東へ約16km、吉野川上流にあたるダム湖「おおたき龍神湖」を見下ろす山の中腹にある。もともとの境内地は大滝ダム建設に際して水没し、1998(平成10)年に現在地に遷座した。旧社殿は、明日香村にある飛鳥坐神社へ移築されている。
*6 「蟻通神社」:神社名は「玉に蟻を通す」難題説話あるいは熊野詣の様子が表現された「蟻の熊野詣」に由来しているともいわれ、諸説ある。「蟻通神社」でもっとも知られているのは熊野街道沿いの大阪府泉佐野市にある同名の神社で、その由来は枕草子にも取り上げられている。