久米寺
近鉄南大阪線橿原神宮前駅の北西約300mにあり、久米仙人(くめのせんにん)*1ゆかりの寺として知られる。現在、境内には本堂、多宝塔*2、観音堂、御影堂などの堂宇が並ぶ。寺伝では聖徳太子の弟、来目(くめ)皇子の開基とし、久米仙人の創建とも伝えるが、創立の経緯*3は明らかでない。しかし、多宝塔の南に残る奈良時代の塔の礎石群や出土瓦から7世紀後半には存在していたと思われる。空海が久米寺に詣で、塔の中で大日経を感得し、のち真言宗を開いたところから真言宗発祥の地ともいう。境内のアジサイ園は6月に開園。
みどころ
ここでの見どころはまず多宝塔(重要文化財)。均衡のとれた多宝塔で、細部の細工が見事。蟇股や垂木、木鼻などの造作が美しい。四方の扉に護方八方天を描き、大日如来を祀っている。本堂はどっしりとした入母屋造の構えで、江戸時代前期の再建といわれている。本堂に祀られる本尊薬師如来坐像は病気平癒、とくに眼病に効験ありとされてきた。本堂内には久米仙人が自らの頭髪と顎髭と歯を植えて自作したと伝わる仙人坐像も安置されている。
補足情報
*1 久米仙人:実在したかどうかは不明。久米仙人の伝説では、修行を始めた頃の話として、「今昔。大和國吉野ノ郡龍門寺ト云寺有リ。寺ニ二ノ人籠リ居テ、仙ノ法ヲ行ヒケリ。其仙人ノ名ヲバ一人ヲアツミ(安曇)ト云フ。一人ヲバ久米ト云フ・・・中略・・。久米モ既ニ仙ニ成テ、空ニ昇テ飛テ渡ル間、吉野河ノ邊ニ、若キ女衣ヲ洗ギ立テリ。衣ヲ洗フトテ、女ノ脹(原典:月偏に巾)脛マデ衣ヲ掻上タルニ、脹(原典:月偏に巾 「はぎ」か?)ノ白カルケル見テ、久米心穢レテ其女ノ前ニ落ヌ。」という失敗をしたが、「其女」を妻としたという。その後、大和の高市郡に都を造営する時、仙人の法で材木を空を飛ばして運べぬかと問われ、「七日七夜不断ニ禮拝恭敬シテ」祈ったところ、材木が空を飛んで運ばれてきたという。「天皇モ是ヲ聞キ給テ貴ビ敬ヒテ、忽に免田卅(30)町ヲ以テ久米ニ施シ給ヒツ。久米喜テ此ノ田ヲ以テ其郡ニ一ノ伽藍ヲ建タリ」として、これが久米寺といわれている。
*2 創立の経緯:大和政権下で、大伴氏の支配下にあった伴造久米直(あたい)のもとで軍事や宮廷の警護の役割を果たしていた部民、久米部(または来目部)に関わりがあるともいわれている。
*3 多宝塔:三間多宝塔、栩(とち)葺(クヌギなどの板葺)。京都仁和寺から移築されたものとされ、江戸初期の建立と伝わる。細部にわたり禅宗の様式がみられる。1986(昭和61)年に解体修理が行われた際、元の位置より北へ約20m移転させている。
*2 創立の経緯:大和政権下で、大伴氏の支配下にあった伴造久米直(あたい)のもとで軍事や宮廷の警護の役割を果たしていた部民、久米部(または来目部)に関わりがあるともいわれている。
*3 多宝塔:三間多宝塔、栩(とち)葺(クヌギなどの板葺)。京都仁和寺から移築されたものとされ、江戸初期の建立と伝わる。細部にわたり禅宗の様式がみられる。1986(昭和61)年に解体修理が行われた際、元の位置より北へ約20m移転させている。
関連リンク | 西国四十九薬師霊場会事務局 久米寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
西国四十九薬師霊場会事務局 久米寺(WEBサイト) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国史大系 第16巻 今昔物語」経済雑誌社1897-1901年 324/808 国立国会図書館デジタルコレクション 須田哲夫「益田池碑銘」福島大学教育学部論集37 人文科学部門 1985年 |
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