當麻寺
近鉄南大阪線当麻寺駅から西へ約1km、雄岳(標高517m)と雌岳(標高474m)からなる二上山*1やその東南麓の丸子山*2(標高212m)を背に、堂塔が建ち並ぶ。仁王門(東大門)から入ると、樹間越しに、左手前から奈良時代に造営された東塔、西塔の2基の三重塔*3が垣間見え、正面には国宝の梵鐘*4が吊るされている鐘楼がある。続いて中之坊*5をはじめとした塔頭が左右に並び、さらに進むと左手に金堂*6、右手に講堂*7が建ち、その奥正面に本堂の曼荼羅堂*8が構えている独特な伽藍配置となっている。境内の東側の飛び地には1447(文安4)年建立の薬師堂が建つ。
創建については、寺伝などによると聖徳太子の弟、麻呂子親王が二上山の西に建立した万法蔵院(現・大阪府太子町に伝承地がある)が始まり。のちに親王は夢告により寺を移そうとしたが壬申の乱などで叶わず、親王の孫、當麻国見(たいまのくにみ)がのちに二上山東麓の現在地に移したという。これについては不明な点も多く、麻呂子親王の子孫で、当地の豪族として隆盛を誇っていた當麻氏が、氏寺として7世紀後半に創建したとも考えられている。奈良時代に入ると、東塔、西塔、千手堂(現・曼荼羅堂)、中院(現・中之坊)などの建立が順次行われ、奈良時代中期には中将姫*9により、当寺の本尊となる「當麻曼荼羅(観無量寿経浄土変相図)」*10が織り上げられたという。平安時代から鎌倉時代にかけては、空海が「當麻曼荼羅」の前で参籠したことにより、真言宗の影響が強くなり、僧房の中之坊を中心にそれまでの三論宗から真言宗へ改宗され、曼荼羅堂の大改修などが行われた。1180(治承4)年、平家の南都攻略の際に東塔、西塔以外の堂宇の大半を焼失したが、折りから貴庶を問わずに流行していた浄土信仰が、極楽浄土を表現した當麻曼荼羅に対する熱烈な信仰を生み復興、再建された。そのため、浄土宗の僧徒も住むようになり、1370(応安3)年には奥院*11が建立された。奈良時代の伽藍配置による堂宇と、浄土信仰による堂宇が入り交じる独特の伽藍構成になったといわれる。現在でも当寺は真言・浄土の2宗が併立している。年中行事としては、4月14日の練供養会式(ねりくようえしき)*12と7月23日の蓮華会式*13などがある。また、境内の塔頭はボタン*14の名所としても知られている。
創建については、寺伝などによると聖徳太子の弟、麻呂子親王が二上山の西に建立した万法蔵院(現・大阪府太子町に伝承地がある)が始まり。のちに親王は夢告により寺を移そうとしたが壬申の乱などで叶わず、親王の孫、當麻国見(たいまのくにみ)がのちに二上山東麓の現在地に移したという。これについては不明な点も多く、麻呂子親王の子孫で、当地の豪族として隆盛を誇っていた當麻氏が、氏寺として7世紀後半に創建したとも考えられている。奈良時代に入ると、東塔、西塔、千手堂(現・曼荼羅堂)、中院(現・中之坊)などの建立が順次行われ、奈良時代中期には中将姫*9により、当寺の本尊となる「當麻曼荼羅(観無量寿経浄土変相図)」*10が織り上げられたという。平安時代から鎌倉時代にかけては、空海が「當麻曼荼羅」の前で参籠したことにより、真言宗の影響が強くなり、僧房の中之坊を中心にそれまでの三論宗から真言宗へ改宗され、曼荼羅堂の大改修などが行われた。1180(治承4)年、平家の南都攻略の際に東塔、西塔以外の堂宇の大半を焼失したが、折りから貴庶を問わずに流行していた浄土信仰が、極楽浄土を表現した當麻曼荼羅に対する熱烈な信仰を生み復興、再建された。そのため、浄土宗の僧徒も住むようになり、1370(応安3)年には奥院*11が建立された。奈良時代の伽藍配置による堂宇と、浄土信仰による堂宇が入り交じる独特の伽藍構成になったといわれる。現在でも当寺は真言・浄土の2宗が併立している。年中行事としては、4月14日の練供養会式(ねりくようえしき)*12と7月23日の蓮華会式*13などがある。また、境内の塔頭はボタン*14の名所としても知られている。
みどころ
五木寛之は「百寺巡礼」のなかで二上山から話を始めている。「二上山」について「大和の人びとは、大和と河内の境に位置するこの山の、こちら側を現世、西の向こう側を浄土と考えていた。いわば、二上山は生の世界と死の世界をわける結界だったのだ。・・・中略・・・” 日没する” 側の大和を象徴するのが二上山だといってもいい。そして、世界をこの二つにわけたとき、ちょうどその要のところが當麻寺に当たるのではないかと思う。」として當麻寺がこの地に存在する意味の重みを指摘している。そして「寺の本尊というのは、ふつう、仏像や名号である。本尊がビジュアルな絵という寺は、日本ではここだけらしい」とし、「かつて二上山の彼方に沈む夕日を見ながら、当時の人びとが思い描いた浄土というものを、目に見えるように表したのがこの曼荼羅なのである。」と、この立地とこの寺の曼荼羅の関係の深さを縷々分析をしている。當麻寺が多くの伝説を生み、源信をはじめとして高僧が関わりをもったのは、こうした信仰の歴史的背景があるのだろう。境内を歩いてみるとそのことをひしひしと感じさせてくれる。
さらに五木寛之は「當麻寺の三重塔は、奈良時代の創建当時のすがたで、東塔と西塔の両方がそろって残っている。・・・中略・・・この三重塔は、木立に囲まれていることと、東西の塔を一望できる場所がなかなかないため、うっかりすると気づかずに通りすぎてしまう。 しかし、あらためて眺めてみると、重厚で非常に美しい。」と、東塔、西塔を迫力ある木造建築だと評している。
このように長い歴史を有する當麻寺の数多い堂塔を見て回るのも興味深いが、本堂の「當麻曼荼羅(観無量寿経浄土変相図)」はもちろんのこと、金堂に安置される、仏教が興隆する白鳳期(7世紀後半)の異国情緒あふれる豊かな表情の弥勒仏坐像、四天王立像をはじめ、講堂ほか諸堂の仏像もじっくり拝観したいものだ。
さらに五木寛之は「當麻寺の三重塔は、奈良時代の創建当時のすがたで、東塔と西塔の両方がそろって残っている。・・・中略・・・この三重塔は、木立に囲まれていることと、東西の塔を一望できる場所がなかなかないため、うっかりすると気づかずに通りすぎてしまう。 しかし、あらためて眺めてみると、重厚で非常に美しい。」と、東塔、西塔を迫力ある木造建築だと評している。
このように長い歴史を有する當麻寺の数多い堂塔を見て回るのも興味深いが、本堂の「當麻曼荼羅(観無量寿経浄土変相図)」はもちろんのこと、金堂に安置される、仏教が興隆する白鳳期(7世紀後半)の異国情緒あふれる豊かな表情の弥勒仏坐像、四天王立像をはじめ、講堂ほか諸堂の仏像もじっくり拝観したいものだ。
補足情報
*1 二上山:にじょうさん。古くは「ふたかみやま」と呼んでいた。雄岳と雌岳の双耳峰。千数百万年前までは活発な活動があった火山。このためサヌカイト・凝灰岩・金剛砂などの火成岩の産出もなされた。飛鳥時代から奈良盆地の人々は夕日が沈む場所として「二上山(ふたかみやま)」を信仰の対象としていた。こうした背景もあり、麻呂子親王の夢見は、落陽を象徴する二上山より西にあった万法蔵院を山の東側の現在地に遷そうとしとしたものだとも伝えられている。雄岳の頂上には、謀反の罪で命を落とした天武天皇の第3皇子・大津皇子の墓がある。大津皇子の姉、大来皇女「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む」(この現世の人である私はまあ、明日から二上山を兄弟と眺めることであろう)など「万葉集」にも二上山に関する多くの歌が取り上げられている。
*2 丸子山:まるこやま。麻呂子山(まろこやま)とも称されている。
*3 東塔、西塔:国宝。奈良時代の伽藍配置にならって金堂の南に2基の塔婆として相対する。ともに本瓦葺の三重塔。東塔は奈良時代の造営、西塔に比べ安定感があり、八輪の相輪の上に魚骨のような水煙(すいえん)をのせる。西塔は東塔より遅く奈良時代に着工したが、完成は平安時代に入ってからだとされる。
*4 梵鐘:国宝。仁王門(東大門)を入って最初に見る鐘楼の鐘。飛鳥時代(7世紀後半)の作といわれ、京都妙心寺の梵鐘と並ぶ日本でも古い鐘といわれている。
*5 中之坊:當麻寺最古の塔頭。役行者が開いた道場といわれ、古くは「中院」とよばれた。中将姫の師である實雅や、弘法大師の弟子となった實弁などの高僧が住房とした。書院、円窓席茶室は国指定の重要文化財。庭園の「香藕園」は桃山時代(16世紀後半)の作庭とされ、国の史跡名勝に指定されている。拝観可能(有料)。
*6 金堂:国指定重要文化財。正面5間、側面4間、入母屋造、本瓦葺。石垣式の基壇に南面して立つ。和様建築で、軒の構成や白壁、板扉の生みだす簡潔な美が印象的。1184(寿永3)年の再建であるが奈良時代創建時の規模・形式を踏襲したものと思われる。堂内に弥勒仏坐像や四天王立像などを安置。弥勒仏坐像は、草創時の本尊と考えられる。漆の上に金箔を張った如来形の塑像(そぞう)。2.2mの堂々たる体躯に若々しさがみなぎり、かなり後補があるとはいえ白鳳末期の作にふさわしい。わが国最古の塑像。四天王立像は鎌倉時代の寄木造(よせぎづくり)の多聞天(たもんてん)を除いた3体は白鳳時代(7世紀後半)の脱活乾漆(だつかつかんしつ)像。寺伝に百済(くだら)から将来したと伝えるようにいずれも髭をたくわえた異国的風貌が珍しいが、直立した姿、古風な服装から法隆寺金堂の四天王につぐ時代の作例と思われる。また、堂前に天平時代の凝灰岩製の石燈篭があり、日本最古のものといわれる。
*7 講堂:金堂の北側に建つ。国指定重要文化財。正面7間、側面4間、寄棟造、本瓦葺。1180(治承4)年の兵火で焼失したが1303(乾元2)年に再建。金堂よりもさらに簡素な構造。本尊の阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像など多数の仏像を安置する。阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の典型的な丈六(じようろく・高さ約4.85m)像で寄木造で漆箔を施している。妙幢菩薩(地蔵菩薩の別名)立像は一木造らしい重力感があり、平安時代中期の作とされている。
*8 曼荼羅堂:国宝。當麻寺の本堂。當麻曼荼羅を祀る正面7間、側面6間、寄棟造、本瓦葺の大堂。現在の姿になった1184(寿永3)年までに2回の増改築がなされたため複雑な内部構造をもつ。堂内には曼荼羅のほか中将姫像や阿弥陀如来像、内陣の小室に十一面観音像を安置。中将姫を手伝って曼荼羅を織った織女が観音の化身だったという伝承にちなみ、この十一面観音像は織姫観音と呼ばれる。平安時代中~後期の作。また、堂背後に閼伽棚(あかだな)が設けられており、文様のおもしろい板蟇股がついている。
*9 中将姫:747(天平19)~ 775(宝亀6)年。藤原鎌足の曾孫である藤原豊成の娘とされる。763(天平宝字7)年に實雅に師事し當麻寺に入り、法如(ほうにょ)と号し、阿弥陀如来と観音菩薩の助けにより、法如が感得した西方浄土の有様を表す曼荼羅図を蓮糸で織り成したという伝承がある。これが當麻曼荼羅である。実物は絹糸の綴織(つづれおり)だったという。
*10 當麻曼荼羅(観無量寿経浄土変相図):国宝。當麻曼荼羅は観無量寿経に説く西方浄土を描く。天平時代(8世紀)の作。現在本堂にかかっているのは2回目に転写された室町時代の文亀(ぶんき)曼荼羅で、縦3.79m、横3.81mの大画面に壮麗な浄土世界を描きあげている。1回目の1217(建保5)年に転写された建保曼荼羅は焼失し現存しない。また、當麻曼荼羅厨子は曼荼羅を納めるために扁平な六角形をした漆塗厨子で天平時代に作られたとされ、鎌倉時代に大修理された。正面の扉には蓮や散蓮華をあしらった蒔絵のほか結縁者2,000余名の名が列記されている。裏には裏板(うらいた)曼荼羅を納める。裏板曼荼羅は、原本の曼荼羅を中世に板装にしたが江戸時代に剥がしたため、板に原本の痕跡がかすかに残ったものをいう。
*11 奥院:京都の知恩院の12代住職誓阿普観が開山。開山した応安年間(1368~1375)は、京都では南北朝分裂後の混乱が続いており、戦火から免れるため、勅許を得て、知恩院の本尊である「法然上人像」を「撰択本願念仏集」など法然ゆかりの物とともに、當麻寺へと遷座し往生院(現・奥院)を建立した。
*12 練供養会式:聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)といい、「往生要集」を著した源信(惠心僧都)が大衆を浄土信仰に導くために、1005(寛弘2)年に極楽浄土から阿弥陀仏が菩薩衆を従え来迎する様子を中将姫の往生に結び付け演じてみせたのが始まりとされている。現在も1時間ほどで、その様を演じる。
*13 蓮華会式:763(天平宝字7)年、旧暦の6月22日夜から23日朝にかけて中将姫が「當麻曼荼羅」が織り上げたという伝承にちなみ、7月22日夜と23日朝に曼荼羅堂にて営まれる。22日夜は閉門後に行われるが、23日朝は開門後に行われるので、堂内から洩れる声明を聴くこともでき、真言宗に浄土宗が加わった當麻寺独特の作法を見ることができる。
*14 ボタン:開花期は4月中旬~4月下旬。
*2 丸子山:まるこやま。麻呂子山(まろこやま)とも称されている。
*3 東塔、西塔:国宝。奈良時代の伽藍配置にならって金堂の南に2基の塔婆として相対する。ともに本瓦葺の三重塔。東塔は奈良時代の造営、西塔に比べ安定感があり、八輪の相輪の上に魚骨のような水煙(すいえん)をのせる。西塔は東塔より遅く奈良時代に着工したが、完成は平安時代に入ってからだとされる。
*4 梵鐘:国宝。仁王門(東大門)を入って最初に見る鐘楼の鐘。飛鳥時代(7世紀後半)の作といわれ、京都妙心寺の梵鐘と並ぶ日本でも古い鐘といわれている。
*5 中之坊:當麻寺最古の塔頭。役行者が開いた道場といわれ、古くは「中院」とよばれた。中将姫の師である實雅や、弘法大師の弟子となった實弁などの高僧が住房とした。書院、円窓席茶室は国指定の重要文化財。庭園の「香藕園」は桃山時代(16世紀後半)の作庭とされ、国の史跡名勝に指定されている。拝観可能(有料)。
*6 金堂:国指定重要文化財。正面5間、側面4間、入母屋造、本瓦葺。石垣式の基壇に南面して立つ。和様建築で、軒の構成や白壁、板扉の生みだす簡潔な美が印象的。1184(寿永3)年の再建であるが奈良時代創建時の規模・形式を踏襲したものと思われる。堂内に弥勒仏坐像や四天王立像などを安置。弥勒仏坐像は、草創時の本尊と考えられる。漆の上に金箔を張った如来形の塑像(そぞう)。2.2mの堂々たる体躯に若々しさがみなぎり、かなり後補があるとはいえ白鳳末期の作にふさわしい。わが国最古の塑像。四天王立像は鎌倉時代の寄木造(よせぎづくり)の多聞天(たもんてん)を除いた3体は白鳳時代(7世紀後半)の脱活乾漆(だつかつかんしつ)像。寺伝に百済(くだら)から将来したと伝えるようにいずれも髭をたくわえた異国的風貌が珍しいが、直立した姿、古風な服装から法隆寺金堂の四天王につぐ時代の作例と思われる。また、堂前に天平時代の凝灰岩製の石燈篭があり、日本最古のものといわれる。
*7 講堂:金堂の北側に建つ。国指定重要文化財。正面7間、側面4間、寄棟造、本瓦葺。1180(治承4)年の兵火で焼失したが1303(乾元2)年に再建。金堂よりもさらに簡素な構造。本尊の阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像など多数の仏像を安置する。阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の典型的な丈六(じようろく・高さ約4.85m)像で寄木造で漆箔を施している。妙幢菩薩(地蔵菩薩の別名)立像は一木造らしい重力感があり、平安時代中期の作とされている。
*8 曼荼羅堂:国宝。當麻寺の本堂。當麻曼荼羅を祀る正面7間、側面6間、寄棟造、本瓦葺の大堂。現在の姿になった1184(寿永3)年までに2回の増改築がなされたため複雑な内部構造をもつ。堂内には曼荼羅のほか中将姫像や阿弥陀如来像、内陣の小室に十一面観音像を安置。中将姫を手伝って曼荼羅を織った織女が観音の化身だったという伝承にちなみ、この十一面観音像は織姫観音と呼ばれる。平安時代中~後期の作。また、堂背後に閼伽棚(あかだな)が設けられており、文様のおもしろい板蟇股がついている。
*9 中将姫:747(天平19)~ 775(宝亀6)年。藤原鎌足の曾孫である藤原豊成の娘とされる。763(天平宝字7)年に實雅に師事し當麻寺に入り、法如(ほうにょ)と号し、阿弥陀如来と観音菩薩の助けにより、法如が感得した西方浄土の有様を表す曼荼羅図を蓮糸で織り成したという伝承がある。これが當麻曼荼羅である。実物は絹糸の綴織(つづれおり)だったという。
*10 當麻曼荼羅(観無量寿経浄土変相図):国宝。當麻曼荼羅は観無量寿経に説く西方浄土を描く。天平時代(8世紀)の作。現在本堂にかかっているのは2回目に転写された室町時代の文亀(ぶんき)曼荼羅で、縦3.79m、横3.81mの大画面に壮麗な浄土世界を描きあげている。1回目の1217(建保5)年に転写された建保曼荼羅は焼失し現存しない。また、當麻曼荼羅厨子は曼荼羅を納めるために扁平な六角形をした漆塗厨子で天平時代に作られたとされ、鎌倉時代に大修理された。正面の扉には蓮や散蓮華をあしらった蒔絵のほか結縁者2,000余名の名が列記されている。裏には裏板(うらいた)曼荼羅を納める。裏板曼荼羅は、原本の曼荼羅を中世に板装にしたが江戸時代に剥がしたため、板に原本の痕跡がかすかに残ったものをいう。
*11 奥院:京都の知恩院の12代住職誓阿普観が開山。開山した応安年間(1368~1375)は、京都では南北朝分裂後の混乱が続いており、戦火から免れるため、勅許を得て、知恩院の本尊である「法然上人像」を「撰択本願念仏集」など法然ゆかりの物とともに、當麻寺へと遷座し往生院(現・奥院)を建立した。
*12 練供養会式:聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)といい、「往生要集」を著した源信(惠心僧都)が大衆を浄土信仰に導くために、1005(寛弘2)年に極楽浄土から阿弥陀仏が菩薩衆を従え来迎する様子を中将姫の往生に結び付け演じてみせたのが始まりとされている。現在も1時間ほどで、その様を演じる。
*13 蓮華会式:763(天平宝字7)年、旧暦の6月22日夜から23日朝にかけて中将姫が「當麻曼荼羅」が織り上げたという伝承にちなみ、7月22日夜と23日朝に曼荼羅堂にて営まれる。22日夜は閉門後に行われるが、23日朝は開門後に行われるので、堂内から洩れる声明を聴くこともでき、真言宗に浄土宗が加わった當麻寺独特の作法を見ることができる。
*14 ボタン:開花期は4月中旬~4月下旬。
参考文献 |
當麻寺中之坊と伽藍堂塔 本堂(曼荼羅堂)(WEBサイト) 當麻寺西南院(WEBサイト) 當麻寺奥院(WEBサイト) 當麻寺護念院(WEBサイト) 佐佐木信綱「校訳 万葉集(現代語訳付)」Kindle版 |
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2024年12月現在
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