賀名生梅林
JR和歌山線五条駅から南へ丹生川に沿って山間地を入って約9km、賀名生皇居跡*1の向かい側の山の麓から中腹まで広がる約2万本が植栽されたウメ林。西ノ千本・奥ノ千本など吉野山のサクラになぞらえて名を付けた場所もある。この地はカキの生産地としても知られており、カキ畑も随所にみられ、急斜地ではあるが数多くの農家も散在している。ウメの開花期は年によって異なるが、昨シーズン(2024年)は2月中旬から咲き始め、2月下旬~3月上旬に最盛期を迎えた。
この地でのウメの栽培は、「林州」*2という在来種が古くからあったとされるが、本格的に果実の収穫を目的として栽培され始めたのは、明治初期からで、1923(大正12)年に東宮殿下の御成婚を記念して5,000本の苗が植えられ、その後大きく増殖*3された。
この地でのウメの栽培は、「林州」*2という在来種が古くからあったとされるが、本格的に果実の収穫を目的として栽培され始めたのは、明治初期からで、1923(大正12)年に東宮殿下の御成婚を記念して5,000本の苗が植えられ、その後大きく増殖*3された。
みどころ
1923(大正13)年の「賀名生史蹟名所案内」では、「東風春を報ずると全區の梅花爛漫として笑ひ馥郁として匂ひ、溪間を縫ひ園圃を綴り一境香村と化す…中略…口の千本見返りの萬本(瓢箪の芝と云ふ)東雲千本、西の千本、奥の千本など花最も多く花時の壮観之を形容する詞がない」と描写している如く、梅の開花期には純白や淡い紅色の花がさながら雲海のように広がらり、丘陵や沢をうめる光景は爽快。ほのかな香りも心地よい。南北朝時代にこの地に梅があったかどうかは、ともかくも、この地が南朝の歴史悲話の中心地のひとつであったことは事実で、その歴史ロマンに浸りながらの観梅も旅の面白味だろう。このウメ、カキの栽培地の中を巡るには道路(1周約5.5km)を使って回れるが、道が狭いので運転には注意が必要だ。開花期には通行規制*4がある場合もある。梅林の山を徒歩でひと巡りするとなると3時間ほどかかる。
補足情報
*1 賀名生皇居跡:南北朝期、1336(延元元)年に足利尊氏によって都を追われた後醍醐天皇は高野山金剛峯寺への行幸を願ったが叶わず、吉野へ向かう途中、郷士堀孫太郎信増の邸宅に立ち寄ったといわれ、1348(正平3)年には後村上天皇が吉野より難を逃れ、この地に遷座し、後亀山、長慶天皇の行宮となった。南北朝が一時統一された「正平の一統」(1351年)の際には数か月ではあったが、朝廷が置かれ都となった。その後、南朝の行宮は河内や摂津などに移されたが、賀名生は南北朝時代を通し、度々南朝方の拠点となった。現在は、室町時代に遡る古風な特色をもつ冠木門のある堂々とした藁葺きの建物、堀家住宅が遺されている(国指定重要文化財)。また、梅林の麓には「賀名生の里 歴史民俗資料館」がある。
なお、賀名生(あのう)の名については、この地はもともと「あなう」とよばれ、「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記されていたが、正平の一統の時、後村上天皇が「願いが叶った」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたといわれている。その後に、「加名生」はおそれ多いので「賀名生」に改め、明治初期に読み方も「あのう」に統一したという。
*2 「林州」:賀名生梅林のある北曽木地区の在来品種で、別名「北曽木梅(ほくそぎうめ)」とも呼ばれる。明治初期から果実目的として本格的に植栽が始められた。花は桃色の八重咲きで観梅にもよい。ただ、果皮が柔らかく食味が良いが、梅干し等に加工した際の歩留まりが悪いため、「白加賀」や「南高」に押され栽培面積は減少傾向。現在、産地ブランド化を目指し、官民で取り組んでいる。なお、賀名生梅林では「白加賀」「鶯宿」「南高」「林州」が植栽されている。この地には「林州」などの在来種が古くからあったとされるが、南朝の行宮においては「千人万首」などの歌会も催されたとされ、「賀名生史蹟名所案内」によると、後村上天皇の「匂ふなり木のもとしらぬ梅か香の便となれる春の夕風」や「春の宮に木高く匂ふ花ならはわきてや見まし宿の梅か枝」など、梅に関する歌も詠まれたという。ただ、これらの歌が、この地区の梅を歌ったものであるかは不詳である。
*3 増殖:1891(明治24)年発行の「大和国町村誌集」によると賀名生村北曽木地区では「青梅20石(約3,000kg)」が生産されていたと記している。それが、1923(大正13)年発行の「賀名生史蹟名所案内」では「梅林林樹正に一萬果實の収穫毎年約2,000石(約30万kg)村落の経済を優に補足して居る」とし、30年あまりで急激に増殖されたことが記録されている。
*4 通行規制:ウメ林やカキ畑やそれを生産する農家がある急斜地の道路は狭く、生活道路にもなっていることから、ウメの開花期には車の通行が制限されることがある。駐車場は麓に100台分ほど確保される(有料)。そこから眺望地へ徒歩で行くことになる。
なお、賀名生(あのう)の名については、この地はもともと「あなう」とよばれ、「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記されていたが、正平の一統の時、後村上天皇が「願いが叶った」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたといわれている。その後に、「加名生」はおそれ多いので「賀名生」に改め、明治初期に読み方も「あのう」に統一したという。
*2 「林州」:賀名生梅林のある北曽木地区の在来品種で、別名「北曽木梅(ほくそぎうめ)」とも呼ばれる。明治初期から果実目的として本格的に植栽が始められた。花は桃色の八重咲きで観梅にもよい。ただ、果皮が柔らかく食味が良いが、梅干し等に加工した際の歩留まりが悪いため、「白加賀」や「南高」に押され栽培面積は減少傾向。現在、産地ブランド化を目指し、官民で取り組んでいる。なお、賀名生梅林では「白加賀」「鶯宿」「南高」「林州」が植栽されている。この地には「林州」などの在来種が古くからあったとされるが、南朝の行宮においては「千人万首」などの歌会も催されたとされ、「賀名生史蹟名所案内」によると、後村上天皇の「匂ふなり木のもとしらぬ梅か香の便となれる春の夕風」や「春の宮に木高く匂ふ花ならはわきてや見まし宿の梅か枝」など、梅に関する歌も詠まれたという。ただ、これらの歌が、この地区の梅を歌ったものであるかは不詳である。
*3 増殖:1891(明治24)年発行の「大和国町村誌集」によると賀名生村北曽木地区では「青梅20石(約3,000kg)」が生産されていたと記している。それが、1923(大正13)年発行の「賀名生史蹟名所案内」では「梅林林樹正に一萬果實の収穫毎年約2,000石(約30万kg)村落の経済を優に補足して居る」とし、30年あまりで急激に増殖されたことが記録されている。
*4 通行規制:ウメ林やカキ畑やそれを生産する農家がある急斜地の道路は狭く、生活道路にもなっていることから、ウメの開花期には車の通行が制限されることがある。駐車場は麓に100台分ほど確保される(有料)。そこから眺望地へ徒歩で行くことになる。
関連リンク | 五條市役所(WEBサイト) |
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参考文献 |
五條市役所(WEBサイト) 「大和国町村誌集 15巻8」1891年 45/82 「大和志」125/195 奈良女子大学学術情報センター 「大和志料 下巻」奈良県教育会 大正3年 338/359 国立国会図書館デジタルコレクション 「太平記 下」有朋堂書店 昭和2年 89/354 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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