南法華寺(壷阪寺)みなみほっけじ(つぼさかでら)

近鉄吉野線壺阪山駅から南東へ約4km、高取山(標高584m、高取城跡*1)の中腹にある。正しくは南法華寺だが、壷阪寺の名で知られる。西国三十三所第6番札所として眼病に霊験があるという十一面観音像を祀る。開創*2は不明な点が多いが、寺伝の「南法花寺古老伝」では、703(大宝3)年に元興寺の僧弁基によるものとされている。847(承知14)年には官寺に準ずる定額寺に列せられ朝野の崇敬*3を集め、全盛期には36堂、60余坊の大伽藍を擁した。南北朝や戦国の動乱のなかで、当時庇護を受けていた越智氏が滅亡すると、壷阪寺も衰退の途を辿ったが、のちに豊臣秀長の家臣で高取城主の本田利久により復興。江戸時代には高取藩主・植村氏の庇護のもと栄えた。明治の初めには人形浄瑠璃の演目として、盲目の沢市と妻お里の夫婦愛を描いた『壺坂霊験記』*6が初演。さらに歌舞伎や講談、浪曲などでも取り上げられるほどの人気の演目となり、壷阪寺の名はさらに広まった。現在の堂のうち、禮堂*4と三重塔*5は室町時代、本堂は幕末の再建。ほかは平成に再興されたものが多い。これらの堂塔に交じって、境内で目を引くのは、「天竺渡来 大観音石像」をはじめとする巨大な石仏や、インド風の大石堂など。壷阪寺は昭和30年代以降、インドでハンセン病患者の救済に尽力。その縁により、昭和~平成に造立されたものである。
 また、1961(昭和36)年に境内に日本で最初の養護盲老人ホームとして「慈母園」が建てられ、以後、現在まで国内外でさまざまな福祉事業や奉仕活動が続けられている。
 壷阪寺から800mほどの裏山に登ると、岩面にすき間なく刻まれた五百羅漢の石仏群がある。壷阪寺の奥之院ともいわれるが寺との歴史的なつながりについては、はっきりしていない。
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みどころ

高取山中腹の緑に包まれて境内が広がり、大きな目が印象的な本尊や、古色を帯びた堂塔が、古来、眼病平癒の信仰を集めてきた歴史を感じさせる。一方、境内には昭和以降、インドとの交流の中で造られた大観音石像(高さ20m)、大涅槃石像(全長8m)、壷坂大仏と呼ばれる大釈迦如来石像(高さ10m)もあり、異国的な雰囲気を漂わせている。大涅槃石像の前や、本堂裏からは奈良盆地の眺望が素晴らしい。
 春から初夏にかけてはサクラ、ヤマブキ、アジサイ、ラベンダーなどが咲き競い、秋には境内のカエデや周囲の山々が色づき山寺らしい風情をみせる。また近年は桜に包まれた壷阪大仏が「桜大仏」とよばれて人気を集めている。
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補足情報

*1 高取城跡:高取山山頂に築かれた山城で、城内は周囲約3km、郭内は周囲約30kmに及んだ。現在は本丸・二の丸などの石垣のみが遺る。国指定史跡。高取城は1332(元弘2)年、南朝方の豪族・越智氏が築いた。1584(天正12)年、筒井順慶によって郡山城の詰城として再建され、近世的な城郭としての整備・拡張が行われた。その後、豊臣秀長の家臣本多利久により改修された。1637(寛永14)年に本多氏が絶えた後は、植村氏が入封し、明治初めの廃藩置県まで14代にわたり植村氏が城主を務めた。
*2 開創:14世紀後半に編纂された年代記「帝王編年記」の大宝3年(703)の項には「今年佐伯姫足子入道尼名善心造高市郡南法華寺」と記され、「佐伯姫足子入道尼『善心』」が南法華寺を造ったとしている。
*3 朝野の崇敬:平安貴族も盛んに詣で、清少納言は『枕草子』(195段)で「寺は壷坂。笠置。法輪。高野は、弘法大師の御住處なるがあはれなるかり。石山。粉川。志賀。」と壷阪寺を筆頭に挙げている。
*4 禮堂:本尊を礼拝するための堂宇。創建当初からあったとされるが、その後、焼失などがあり、室町時代初期に再建され、江戸期に大改修された結果、規模も縮小された。昭和期に入り、解体修理が行われた際に詳細な調査を行い、室町時代の規模に復元した。斗(ます)組や肘木など屋根を支える組物には、室町時代中期の手法をみることができる。
*5 三重塔:3間四方、本瓦葺。1497(明応6)年の再建。
*6 壺坂霊験記:原作者は未詳だが、浄瑠璃の2世豊沢団平と妻加古千賀が節付け、加筆して演目にしたという。あらすじは、盲目の沢市は妻のお里が夫の目が見えるようにと壺坂寺へ3年もの間、夜参りしているのを知り、お里を自由にしてやりたいと身投げをしてしまう。それを知ったお里は追いかけて投身したが、壷阪寺の観世音菩薩の霊験により2人とも生き返り、沢市の目も開眼するというもの。