谷瀬の吊り橋
JR和歌山線五条駅から約42km。まず、丹生川沿いに遡り分水嶺を越え、天の川、さらに下流の十津川沿いに谷あいを進んだところにある上野地集落の北端から対岸の谷瀬集落に向け架かっている。両岸を結ぶ鉄線橋*1で、長さ297m、川面からの高さは54mもある。同時に渡れるのは約20人までとなっている。十津川村は吊り橋が多いことで知られ、40本以上*2が見られるが、最近はコンクリート橋に変わってきている。対岸の谷瀬には黒木御所跡*3がある。
みどころ
十津川はV字渓谷を造りながら南流している。谷瀬の吊り橋付近は上流部としては比較的川幅は広いものの、両岸は切り立つ崖を形成している。ただ上部は平たん部が確保されており、両岸とも集落が展開されている。この両岸の集落を結ぶ吊り橋は川面からは高い位置に架けられ、かつ、長大である。橋の真ん中あたりでは多少の揺れもあり、渡り切るにはかなりの勇気がいる。しかし、橋からは、周囲の山々の四季折々の彩りや、十津川としては開放感のある流れを高みから見渡すことができ、爽快な景観となっている。
補足情報
*1 鉄線橋:谷瀬の吊り橋は生活用吊り橋で、1954(昭和29)年、谷瀬の集落の住民たちが、地区の共有財産であった松林の松を売却して建設費用を捻出したうえで、村と協力し、完成させたもの。この吊り橋が架けられる前にも、谷瀬と上野地の間に橋があったことはすでに1835(天保6)年の「和州吉野郡十津川郷細見全図」にも描かれているが、これは谷の底に架けられた丸木橋で十津川の洪水のたびに流されていたという。
*2 40本以上:十津川村の橋梁修繕事業計画表(令和3年)では、43本が吊り橋として記載されている。
*3 黒木御所跡:黒木御所は天皇の仮御所のことを指す。皮のついたままの丸木で建屋を造られたことから、この名がついている。このため、南北朝期に関する仮御所も含め、奈良や佐渡、隠岐などにこの名の史跡がある。この地のものは、享保年間(1716~1736年)に編纂された地誌「大和志」の竹原八郎宅の項に「在谷瀬村親王護良寓居于此」として記載されており、後醍醐天皇の第3皇子護良親王が、元弘の変(1331年)で後醍醐天皇の2度目の討幕運動に参画し失敗し、再起を図るため十津川に逃げ込み、地元の豪族竹原八郎に匿まわれた場所とされている。
*2 40本以上:十津川村の橋梁修繕事業計画表(令和3年)では、43本が吊り橋として記載されている。
*3 黒木御所跡:黒木御所は天皇の仮御所のことを指す。皮のついたままの丸木で建屋を造られたことから、この名がついている。このため、南北朝期に関する仮御所も含め、奈良や佐渡、隠岐などにこの名の史跡がある。この地のものは、享保年間(1716~1736年)に編纂された地誌「大和志」の竹原八郎宅の項に「在谷瀬村親王護良寓居于此」として記載されており、後醍醐天皇の第3皇子護良親王が、元弘の変(1331年)で後醍醐天皇の2度目の討幕運動に参画し失敗し、再起を図るため十津川に逃げ込み、地元の豪族竹原八郎に匿まわれた場所とされている。
関連リンク | 十津川村(WEBサイト) |
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参考文献 |
十津川村(WEBサイト) 奈良県観光公式サイト「なら旅ネット」(WEBサイト) 「大和志」126/195 奈良女子大学学術情報センター 「和州吉野郡十津川郷細見全図」国立国会図書館デジタルコレクション 朝日日本歴史事典 朝日新聞出版 |
2024年12月現在
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