長弓寺ちょうきゅうじ

近鉄けいはんな線学研北生駒駅から南へ約1.4km、近鉄奈良線富雄駅から北へ約3.4kmのところにある。富雄川沿いの高山街道を北上した静かな山懐にある。創建には諸説*1あるが、寺伝によると、鳥見(とみ)郷の名族小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が聖武天皇に供して狩りをした際、世嗣長麻呂の流れ矢にあたって死去したため、その死を哀れんだ天皇が行基に命じて建立したという。幾度か火災を受け、現在は本堂*2のほか法華院、円生院、薬師院、宝光院地蔵堂の塔頭4坊などが建ち並んでいる。寺の東方山上の真弓塚は真弓長弓の墓とされるが、天皇の弓の一部を埋めたものとも伝えられる。
#

みどころ

かつての大寺の面影*3は少ないものの、最大のみどころは、鎌倉期に建立された本堂。軒の反り返りが美しくしっかりとしており、鎌倉期の寺院建築の特色である質実剛健さがよく現れている。構造的にも簡素な組物に彫刻入りの蟇股で変化を加え、内部は虹梁、垂木を露出させて機能的な美を表現している。
#

補足情報

*1 諸説:大正期に発行された「大和志料」では、諸説を紹介している。ひとつは、「和州添下郡真弓山長弓寺縁起」のもので、「聖武天皇之勅願天平年中之開基也」とし、聖武天皇がこの地に狩りに来た際に帯びていた弓で行基が十一面観音像を刻み、本尊にしたという。その木屑を埋めたのが真弓塚であるとし、桓武天皇の時代には荒廃した同寺を藤原良継が興復したとする説をあげるが、「大和志料」はこの説については懐疑的である。「大和志料」では、1244(寛元2)年の「東大寺所蔵春華秋月抄」における当寺の勧進文案を引いて「藤原良継嘗テ鳥見山ニ遊猟シ獲ヲ貪リ深ク山中ニ入リ誤テ路ヲ失ヒ殆ント一命ヲ墜スヘカリシヲ観音ニ祈誓シ遂二其難ヲ免レシニ依リ齎ラス所ノ檀弓ヲ以テ十一面観音像ヲ造リ居常之ヲ崇敬セシカ、後チ長谷ノ観音ノ御衣木ノ餘材ヲ乞ヒ等身ノ観音像ヲ造リ彼檀弓ノ小像ヲ之レカ體中ニ籠メ以テ本尊トナシ伽藍ヲ建立シ之ヲ安置セルカ即チ是當寺ノ草創ナリ」とする説が有力だとしている。
藤原良継(716~777年)は兄藤原広嗣の乱などで、配流や位階はく奪などの処分を受けたが、藤原仲麻呂の乱で功を挙げ、内大臣にまで位階を登り詰めた人物。
*2 本堂:国宝。勾配のゆるい典雅な桧皮葺、入母屋造の屋根をもつ堂で、棟上に1279(弘安2)年の建立の墨書がある。正面5間、側面6間、細部は和様を主体に天竺様・唐様を混じえ、調和のとれた美しい姿を見せる。須弥壇には中央厨子内に木造十一面観音立像、左右に釈迦・阿弥陀像を安置する。木造十一面観音立像は像高116cm、一木造の藤原初期の作。頭上の仏面は行基が天皇の弓に彫刻したという伝承もある。本堂拝観には事前予約が必要。
*3 大寺の面影:養和年間(1181~1182年)に火災に遭い、1279(弘安2)年に本堂が再建されたが、1577(天正5)年、織田信長により寺領を一部没収され、寺勢は衰えた。1746(延享3)年の「寺院本末改帳」によれば、「坊舎 二十軒内九軒寺御座候十一軒ハタタミ置屋舗計リ」と衰退の様を記している。明治初期の廃仏毀釈を経て現在、寺坊は4軒となっている。