郡山城
近鉄郡山駅の北にあり、犬伏(いぬぶせ)城とも呼ばれる。1580(天正8)年には筒井順慶*1が織田信長からこの地一円を安堵されたが、郡山城以外の城の破却を命じ「大和一国破城令」により筒井城から居城を郡山城に移し、城下を含め整備を図ることとなった。1585(天正13)年豊臣秀長*2が100万石をもって入封、社寺の礎石や石仏をも使い、大規模整備を行った。天守台の石垣には転用石材が多用されており、「逆さ地蔵」の愛称で親しまれる石仏や、平城京羅城門の礎石と伝わる石などを現在も見ることができる。江戸時代には水野・松平・本多各氏のあと1724(享保9)年、柳澤吉里*3が入り、15万石を領して柳澤氏の支配が明治期の廃藩置県まで続いた。現在、石垣や堀が残るほかに、追手門、追手東隅櫓、多聞櫓、追手向櫓*4などが復元され、天守台には展望施設が整備されている。また城跡には約800本のサクラが植えられており、サクラの名所としても知られている。江戸中期の彦根藩士で俳人の森川許六*5の句「菜の花の中に城あり郡山」はこの城を詠んだものである。
みどころ
築城当時の建造物は遺されていないが、石垣や堀が往時と変わらぬ威容を伝えている。天守台の展望施設からは、大和郡山の町並みを眼下に奈良盆地を一望。平城宮跡第一次大極殿、薬師寺、若草山なども望める。城跡はサクラの名所としても有名で、例年3月下旬から4月上旬に開催される「大和郡山お城まつり」には多くの人々が訪れる。
補足情報
*1 筒井順慶:1549~84年。家督相続時は大和国の一大勢力であったが、松永久秀により居城の筒井城を一時追われた。織田信長のもと、久秀を討ち、1580(天正8)年に大和国一円を与えられ、郡山城に居城を移した。
*2 豊臣秀長:1541~91年。豊臣秀吉の異父弟。秀吉の中国征伐で功があり、但馬竹田・出石城主などとして但馬・播磨地区の経略に従事。本能寺の変後も秀吉の天下取りにむけ、片腕として貢献した。1585(天正13)年大和・和泉・紀伊合わせて100万石を領有し、郡山城を居城とした。
*3 柳澤吉里:1687~1745年。1724(享保9)年甲斐国(山梨県)甲府から郡山へ転封。柳澤郡山藩初代藩主となる。15万1,200石。
*4 追手門、追手東隅櫓・多聞櫓・追手向櫓:1983(昭和58)年市民の寄付などによりに追手門が復元。1984(昭和59)年には追手東隅櫓と東多聞櫓、1987(昭和62)年には追手向櫓と多聞櫓が復元された。
*5 森川許六:1656~1715年。 松尾芭蕉の門人で蕉門十哲のひとりとされている。
*2 豊臣秀長:1541~91年。豊臣秀吉の異父弟。秀吉の中国征伐で功があり、但馬竹田・出石城主などとして但馬・播磨地区の経略に従事。本能寺の変後も秀吉の天下取りにむけ、片腕として貢献した。1585(天正13)年大和・和泉・紀伊合わせて100万石を領有し、郡山城を居城とした。
*3 柳澤吉里:1687~1745年。1724(享保9)年甲斐国(山梨県)甲府から郡山へ転封。柳澤郡山藩初代藩主となる。15万1,200石。
*4 追手門、追手東隅櫓・多聞櫓・追手向櫓:1983(昭和58)年市民の寄付などによりに追手門が復元。1984(昭和59)年には追手東隅櫓と東多聞櫓、1987(昭和62)年には追手向櫓と多聞櫓が復元された。
*5 森川許六:1656~1715年。 松尾芭蕉の門人で蕉門十哲のひとりとされている。
関連リンク | 大和郡山市(WEBサイト) |
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参考文献 |
大和郡山市(WEBサイト) 「大和志」61/195奈良女子大学学術情報センター 「大和志料 上巻」奈良県教育会 大正3年 276/446 国立国会図書館デジタルコレクション 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」(WEBサイト) 「角川日本史辞典」角川書店 |
2024年12月現在
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