慈光院
JR関西本線(大和路線)大和小泉駅から北へ約1.5km、南流する富雄川(とみおがわ)の西の小丘にある。1663(寛文3)年に、石州流茶道の祖である小泉藩主片桐貞昌*1が父の菩提を弔うため建立*2した。あられ石の参道を通り、楼門を越えると、茅葺農家風の書院が現われる。簡素な書院*3は1664(寛文4)年に建てられたもので、12畳の主室ほか数室からなり、主室の東と南に広縁があり、東と南に眺望が大きく開けている。東側は低い植込みにして奈良盆地の雄大な借景を取り入れており、南側には石組は用いず、白砂を前にしてツツジなど約70種からなる大刈込を配している。
本堂は、創建当初のものは江戸中期に焼失しているが、史料を手がかりに1984(昭和59)年再建された。書院の東北隅には柿葺の茶室高林庵(こうりんあん)*3があり、書院西北隅の別棟に3畳の閑(かん)茶室*4がある。
精進料理も提供している(要事前予約)。
本堂は、創建当初のものは江戸中期に焼失しているが、史料を手がかりに1984(昭和59)年再建された。書院の東北隅には柿葺の茶室高林庵(こうりんあん)*3があり、書院西北隅の別棟に3畳の閑(かん)茶室*4がある。
精進料理も提供している(要事前予約)。
みどころ
参道から演出が凝らされている。高い生垣のある石畳の道で、吸い込まれるように境内に導かれる。さらに一之門から茨木門に続く道では切り立った土手と繁茂した木立が暗がりを作り、道を折れ曲がることで先行きへの期待を膨らませる。そして、境内や庭園に入った途端、明るさと広がりをより強く感じさせ、茶室に誘う仕掛けになっている。茶室では、石州流の祖が設計しただけに、簡素な中に茶道の真髄が織り込まれていることを学ぶことができる。
庭園は、奈良盆地の雄大な景観を取り入れ、明るい開放的な景色を創り出している。ただ、東側は、都市開発が進み景観の劣化がみられるため、当院では東面の約3,000坪に盛り土し、数百本の植樹を行うなど景観・環境保全に努めていることも高く評価したい。
庭園は、奈良盆地の雄大な景観を取り入れ、明るい開放的な景色を創り出している。ただ、東側は、都市開発が進み景観の劣化がみられるため、当院では東面の約3,000坪に盛り土し、数百本の植樹を行うなど景観・環境保全に努めていることも高く評価したい。
補足情報
*1 片桐貞昌:1605~1673年。豊臣家の直参家臣で賤ヶ岳の七本槍の一人で知られる片桐且元の甥。片桐家は関ヶ原の戦い以降、徳川家方に転じ、貞昌は大和国小泉藩(現・大和郡山市小泉町付近)2代目藩主となった。大名であるとともに、茶道に優れ、官位の石見守から、石州の名で広く知られるようになり、石州(せきしゅう)流の開祖となった。江戸幕府4代将軍徳川家綱の茶道師範ともなり、また、知恩院などの作事奉行としても活躍した。
*2 建立:大徳寺の玉舟宗璠を開山にして開創。
*3 高林庵(こうりんあん):2畳台目の小さな茶室だが、別に2畳の控えの間が設けられ、襖を外して4畳台目で使ったり、懐石の配膳場所にしたりしていたという。台目畳(だいめだたみ)は普通の畳の約3/4の大きさ。また、 お点前座の付近(横・後)に床の間がある 「亭主床」を採用していることでも知られる。1671(寛文11)年に書院の東北隅に建て増しされた。
*4 閑(かん)茶室:躙り口は無く、客は廊下の貴人口から入り、亭主の左側に客が坐る逆勝手の3畳茶室。本勝手では客は右側に坐るので、逆勝手の場合、一部点前の方法が逆になる。「高林庵茶室」よりも陰翳が強い造りになっているおり、二つの茶室が対で陰陽を表わしているといわれている。
*2 建立:大徳寺の玉舟宗璠を開山にして開創。
*3 高林庵(こうりんあん):2畳台目の小さな茶室だが、別に2畳の控えの間が設けられ、襖を外して4畳台目で使ったり、懐石の配膳場所にしたりしていたという。台目畳(だいめだたみ)は普通の畳の約3/4の大きさ。また、 お点前座の付近(横・後)に床の間がある 「亭主床」を採用していることでも知られる。1671(寛文11)年に書院の東北隅に建て増しされた。
*4 閑(かん)茶室:躙り口は無く、客は廊下の貴人口から入り、亭主の左側に客が坐る逆勝手の3畳茶室。本勝手では客は右側に坐るので、逆勝手の場合、一部点前の方法が逆になる。「高林庵茶室」よりも陰翳が強い造りになっているおり、二つの茶室が対で陰陽を表わしているといわれている。
関連リンク | 慈光院(WEBサイト) |
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参考文献 |
慈光院(WEBサイト) 平凡社「世界大百科事典 第2版」 「奈良県の歴史散歩(上)奈良北部」山川出版社 |
2024年12月現在
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