天河大辨財天社てんかわだいべんざいてんしゃ

近鉄吉野線下市口駅から南へ約26km、天(てん)ノ川の流れに近く、山を背に社殿がある。創建については確かなことは不詳だが、同社の縁起によれば、7世紀後半に現れた修験道の祖、役行者*1が感得した辨財天を弥山*2(標高1,895m 大峰山の峰のひとつ)に祀ったのが始まりだという。現在も弥山山頂には奥宮が祀られている。また、弘仁年間(810~824年)には空海*3が参籠したとも伝えられている。皇室*4や武士の崇敬が篤く、修験道の隆盛とともに栄えた。修験道は古くからあった山岳信仰と仏教、道教、神道などを習合したものであったため、同社は江戸時代には宗像神社*5、あるいは琵琶山白飯寺*6とも称され、天川荘21ヶ村の氏神でもあった。社宝には室町以降の多くの能面*7・能装束が伝えられている。現在の天河大辨財天社となったのは明治初期の神仏分離令により、白飯寺が廃寺となったためである。
 境内には一段高い所に流造の本殿、入母屋造の拝殿、神楽殿などが並ぶ。本殿には中央に辨財天、右に熊野権現(本地仏・阿弥陀如来)、左に吉野権現(蔵王権現)が祀られている。社殿は古くは白鳳年間に天武天皇が建立したといわれ、その後、焼失と再建が繰り返された。現在の社殿は近年に改修されたり建て替えられたもの。また、境内に隣接して南朝黒木御所跡*8の史跡がある。
#

みどころ

吉野杉の林に覆われた緑豊かな山々に抱かれ、古代からの山岳信仰の霊場であった神秘的な雰囲気を醸し出す。鳥居からまっすぐ進み太鼓橋を渡ると、石段を登ったところの覆屋の中に拝殿があり、覆屋に入って右手の神楽殿を背に本殿を仰ぐように参拝する。神楽殿は辨財天が芸能の神ともいわれているだけに凝った造りとなっている。そのほか、境内には行者堂、摂末社や来迎院本堂が並び、樹齢1200年といわれる銀杏の大樹がある。本殿の辨財天像は、毎年7月16日、17日に催される例大祭で開帳される。本殿右扉の中に安置されている日輪辨財天像については、60年に1度のみの開帳だという。
#

補足情報

*1 役行者:本名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。役行者は自然崇拝の山岳信仰に、渡来した道教・陰陽道や仏教を取り入れ、実践的な修法を行ったといわれている。金峰山(吉野山・大峰山)をはじめ多くの山を開き、全国的にも開山伝説のある寺社が多い。その実在については諸説あるが、8世紀末に成立した勅撰史書「続日本紀」の文武天皇3(699)年の項に「初メ葛木(城)山ニ住テ咒術ヲ以テ称セラル。外従五位下韓國連(カラクニノムラジ)廣足師トス。後其能ヲ害シ、讒(そ・おとしいれる)スルニ妖惑ヲ以テス。遠處ニ配ス」と記載されている。大陸伝来の新しい思想や咒術を取り入れたことが、誣告につながったということが窺える説話である。
*2 弥山:天河大辨財天社の創始は弥山と役行者に遡るが、室町時代の「役行者本記」の683(天武天皇12)年の項は役行者について「弥山ニ居ヲ卜(決め)シ護摩ヲ修メ數月」としている。また、天河大辨財天社については、江戸中期の「大和名所図会」は「役行者大峯の険路をひらき給はんとして、先(まず)此山にして霊驗を禱り給ひしに岩竅(穴)に清泉わきながれ、神霊円光をかがやかす。廟には琵琶の響きありて、人心の迷雲をはらひしより琵琶山と号せり」としている。
*3 空海:774~835年。真言宗の開祖。空海(弘法大師)と天河大辨財天社については、「大和名所図会」では、役行者が開いた琵琶山において「弘法大師ここに来たって千日の行法には辨財天女現じ給ひしかば、其尊像を彫刻し神霊を鎮め奉る。天川辨財天是なり。又宗像神祠とも崇む。天川荘二十一村氏神とす」として、空海が辨財天像を彫った、と記している。
*4 皇室:壬申の乱を起こす前、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野宮に逃れた際、勝利を祈願して琴を奏したところ、天女が現れて戦勝を祝福されたという伝説がある。この天女は、役行者が弥山山頂に祀ったという辨財天だったということから、大海人皇子は天皇に即位したのち、天河大辨財天社の社殿を造営したと伝えられている。
*5 宗像神社:江戸前期の地誌「大和志」には「天ノ川ノ荘二十一村相共ニ祭祀。正殿、拝殿、御厨所・十二の小祠、四箇の怪石・三所の清泉。域ノ内ニ寺有リ。號を琵琶山白飯寺妙音院ト曰(言)ウ。観音堂、地蔵堂、薬師堂、行者堂、護摩堂、二級の寳塔、僧舎三宇。曰ク理性院、曰ク神福寺、曰ク来迎院、一名御所ノ坊護良親王嘗テっ寓居ノ所也」としている。
*6 琵琶山白飯寺:江戸中期の「大和名所図会」では、「大峯天(てんの)河社」という挿絵にて、弥山を背に数棟の社殿、堂宇と鳥居が描かれている。項名は「琵琶山白飯寺」となっており、役行者と空海との縁起に触れたあと、「天川辨財天是なり。又宗像神祠とも崇む。天川荘二十一村氏神とす」と記され、「大和志」とほぼ同じ社殿堂宇の説明となっている。
 これが明治後期の「明治神社誌料」では、「天川(テンノカワノ)神社」とされ、祭神は「市杵島姫命、蔵王彦命、若一王子伊弉玉命」としている。社殿は、本殿、拝殿、渡殿など、氏子二十二ヶ村により再建造営したとし、規模が大幅に縮小されている。なお、現在の祭神は市杵島姫命(辨財天様としても信仰されている)、熊野坐大神(熊野権現)、吉野坐大神(吉野権現・蔵王権現)、南朝4代天皇の御霊、神代天之御中主神より百柱の神としており、神仏習合の面影をのこしている。
*7 能面:辨財天は音楽や芸能の神とされることから能楽草創期から能舞や能面、能装束が多数奉納されたという。同社では辨財天の拝殿と能舞台を妙音院と称している。世阿弥の子で能役者・能作家の観世元雅も、1430(永享2)年に、将軍足利義教の寵を失ったことから、再起を図るため能面を天河大辨財天社に奉納したとされ、その能面は今も遺る。能楽や狂言の奉納については、一時廃れたが、第二次世界大戦後復活している。
*8 南朝黒木御所跡:南朝の後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇などが、天川荘を奥吉野における拠点としていた。南朝方の行宮は、天川荘には数か所にあったといわれており、この御所跡もそのひとつ。このため、後醍醐天皇、後村上天皇、後亀山天皇の綸旨(命令文書)が天河大辨財天社に遺る。