海龍王寺
近鉄奈良線新大宮駅から北西へ1.3km、平城宮跡の北東近くにある。710(和銅3)年、平城遷都の際、藤原不比等がこの地を土師氏から譲り受け邸宅を構え、北東隅にあった堂宇を引き継いだのが前身といわれる。731(天平3)年に藤原不比等の娘である光明皇后がこの地を皇后宮とし、伽藍を整備した上で、唐から帰朝した玄昉*1を住持に任じ開基とした。玄昉が唐からの帰路の際、暴風雨に遭遇するも『海龍王経』を唱え無事に帰国を果したことに因み寺号を海龍王寺と定められたという。また、皇后宮の北東隅にあったため古くは隅寺とも呼ばれた。
平安時代に入り衰微したが、鎌倉時代に西大寺の中興の祖叡尊*2が堂宇を修造した。その後も盛衰*3が繰り返されたが、昭和40年代に入り、解体修理などが行われ、伽藍が整備された。現在は、創建時の建築として、西金堂*4が遺されており、堂内には国宝の五重小塔*5が安置されている。また、東金堂跡の南には、木割が太い天竺様の繰形(繋ぎ目を覆う装飾)を用いた1288(正応元)年造立の経堂も建つ。
平安時代に入り衰微したが、鎌倉時代に西大寺の中興の祖叡尊*2が堂宇を修造した。その後も盛衰*3が繰り返されたが、昭和40年代に入り、解体修理などが行われ、伽藍が整備された。現在は、創建時の建築として、西金堂*4が遺されており、堂内には国宝の五重小塔*5が安置されている。また、東金堂跡の南には、木割が太い天竺様の繰形(繋ぎ目を覆う装飾)を用いた1288(正応元)年造立の経堂も建つ。
みどころ
決して広い境内ではないが、表門(山門)をくぐると両側を築地塀に囲まれた参道が続き、奈良時代から続く古寺らしい風情に溢れる。本堂に安置されている本尊の十一面観音立像は必見。鎌倉期の慶派仏師による造仏で、ヒノキ材に金泥が施され、優雅な面差しに、バランスの良い立ち姿は、巧みな彫仏技術を見ることができる。西金堂内には国宝の五重小塔が安置されており、開扉されていれば、堂外から拝観することができる。
補足情報
*1 玄昉:?~746年。717(養老元)年に入唐。法相宗の僧侶。735(天平7)年に帰国した後吉備真備とともに橘諸兄のもと権力をふるい藤原広嗣の反乱を平定したものの、筑紫観世音寺に左遷された。その後、広嗣の怨霊に五体をばらばらにされて呪殺され、その首が「頭塔」に埋められたという伝承もある。
*2 叡尊:1201~1290年。鎌倉中期の律宗の僧。律宗の中興の祖といわれ、西大寺を本拠として戒律の復興に尽力。貧民・病人の救済にも注力した。鎌倉幕府北条家からも信を寄せられていた。
*3 盛衰:1602(慶長7)年に徳川家から寺領100石が寄進されたとされており、寛文年間 (1661~1673年)に成立した「和州寺社記」でも寺領100石が与えられていたことが記されている。
*4 西金堂:正面3間、側面2間、切妻造の小さなお堂で、天平の建築であるが、部材の多くは鎌倉時代に取り替えられている。
*5 五重小塔:西金堂に安置されている。高さ約4mの木造の三間五重塔婆、本瓦形板葺。屋内の堂塔であるため、5層の屋根は上層部に行くに従い、塔身を細く作り、視覚的に上層部と下層部のバランスを重視した組み立てになっている。天平時代の早い時期の建築技法が用いられており、天平時代のものとされている。
*2 叡尊:1201~1290年。鎌倉中期の律宗の僧。律宗の中興の祖といわれ、西大寺を本拠として戒律の復興に尽力。貧民・病人の救済にも注力した。鎌倉幕府北条家からも信を寄せられていた。
*3 盛衰:1602(慶長7)年に徳川家から寺領100石が寄進されたとされており、寛文年間 (1661~1673年)に成立した「和州寺社記」でも寺領100石が与えられていたことが記されている。
*4 西金堂:正面3間、側面2間、切妻造の小さなお堂で、天平の建築であるが、部材の多くは鎌倉時代に取り替えられている。
*5 五重小塔:西金堂に安置されている。高さ約4mの木造の三間五重塔婆、本瓦形板葺。屋内の堂塔であるため、5層の屋根は上層部に行くに従い、塔身を細く作り、視覚的に上層部と下層部のバランスを重視した組み立てになっている。天平時代の早い時期の建築技法が用いられており、天平時代のものとされている。
関連リンク | 海龍王寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
海龍王寺(WEBサイト) 「大和志料 上巻」奈良県教育会 大正3年 205/446 国立国会図書館デジタルコレクション 文化庁 国指定文化財等データベース(WEBサイト) 「和州寺社記 2巻」20/108 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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