三枝祭さいくさのまつり

「ゆりまつり」とも呼ばれる。近鉄奈良線奈良駅から南へ約400m、大神神社の境外摂社、率川(いさがわ)神社*1で例年6月16~18日に行われる。17日には、三枝(さいくさ)の花(三輪山に自生するササユリ)を酒樽に飾って神前に捧げ、4人の巫女がユリをかざして舞を奉納、神話時代を再現する。また、午後からは七媛女(ななおとめ)・ゆり姫・稚児と花車の時代行列が街中を巡行する。祭りの起源は古く、文武天皇の701(大宝元)年制定の「大宝令」*2には既に国家の祭祀として定められていた。平安時代までは祭祀が行われていたが、その後、中絶し、1881(明治14)年になり、古式に則り、祭儀が再興された。16日は宵宮祭、18日は後宴祭が行われる。
#

みどころ

神社での神事では、黒酒、白酒の神酒が「罇(そん)」「缶(ほとぎ)」と称する酒罇に汲まれ、その酒罇の周囲を三輪山に咲くササユリの花で飾り柏の葉でふたをし、巫女が神楽「うま酒 みわの舞」を舞ったあと奉納する。神事が終わると、午後からは古式ゆかしく艶やかな衣裳を着た「七媛女(ななおとめ)*3」を筆頭に、ゆり姫や稚児らの華やかな行列が奈良市街を巡る。初夏の風物詩として奈良の町に彩りを添えてくれる。
#

補足情報

*1 率川(いさがわ)神社:593(推古天皇元)年創建と伝えられる。祭神は神武天皇の皇后、媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)。三棟の本殿は、中央に皇后、左側が皇后の父神の狭井大神(さいのおおかみ)、右側には母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)を祀っている。927(延長5)年に撰進された「延喜式」にも「率川坐大神御子大神社」の名で記載されている。「子守明神」として信仰を集めていた。本殿は一間社春日造、檜皮葺の社殿を南向きに三殿並列させたもので、江戸前期頃のものとされ、1862(文久2)年と2007(平成19)年に保存修理が行われている。
*2 大宝令:わが国で最初に編纂された律令の法典。この内容の主なものを引き継いでいる養老律令によれば、「三枝祭」については神祇令のなかに「三枝祭 謂率川社祭也。以三枝花飾酒罇祭。故曰三枝也」と率川神社で三枝の花を飾り、酒樽を祭っていたことが記されている。「三枝」については、1916(大正5)年に発刊された「大宝令新解」では、大神神社の近くを流れ、皇后が住んでいたという狭井(さい)川の河辺に山百合が多く、山百合(ササユリ)が佐葦(さい・さき)と呼ばれていたことから川の由来になったとし、「三枝の佐紀と山百合(ササユリ)の佐葦(さい・さき)と其音相通ふによれり、此故事を以て神祭の時、山百合の花にて神前の酒樽を飾りて祀る、故に祭の名とせり」としている。ただ、祭りの中絶期間が長かったため「三枝」が「山百合」(ササユリ)にあたるかどうかについては不詳である。
*3 七媛女:古事記では「七人の乙女が高佐士野を歩いており、伊湏気余理比売(いすけよりひめ 後の皇后で、率川神社の主祭神)がその中にいた。そして大久米命がその伊湏気余理比売を見て、歌で(神武)天皇に申し上げた。 『大和の国の 高佐士野を七人連れ立って歩く 乙女たちその中の誰を妻となさいましょう』  この時、伊湏気余理比売は、その乙女たちの先頭に立っていた。天皇はその乙女たちを見て、御心のうちに、伊湏気余理比売が一番前に立っているとお気付きになって、歌で答えて仰せになる、『どの娘とも決めがたいが 一番先頭に立つ年長の乙女を妻としよう』」(中村啓信・訳)という記述があり、「七媛女」はその七人の乙女を指す。
関連リンク 率川神社(WEBサイト)
参考文献 率川神社(WEBサイト)
「国史大系 第12巻 令義解」経済雑誌社 1897~1901年 49/880 国立国会図書館デジタルコレクション
窪美昌保「大宝令新解 第1冊(第1-2巻)」大正5年 88/132 国立国会図書館デジタルコレクション
精選版 日本国語大辞典 小学館 「三枝祭」
中村啓信「新版古事記 現代語訳付き」角川ソフィア文庫 Kindle版

2024年12月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。