月ヶ瀬梅林つきがせばいりん

JR関西本線月ヶ瀬口駅から南へ約8km、奈良市街からは柳生経由で約30km、木津川の支流五月(名張)川の渓谷とダム湖の月ヶ瀬湖に沿い、両岸の岸辺から山腹へ約4kmにわたって梅林がつづく。その数1万本ともいわれ、両側から山が迫り、V字型をした渓谷は、2月下旬になると白い花に埋まり、芳香に包まれる。
 梅林の起源*1は明らかではないが、月ヶ瀬がウメの生産地となったのは、この地が渓谷沿いの狭隘な土地柄で水田耕作が困難であったことから、江戸時代に入り、ベニバナによる紅染めや化粧用の紅の需要が高まったため、その媒染剤としての「烏梅」*2の需要も高まり、村民が競って畑や山を開いてウメを植樹したことが始まりだとされる。その結果、渓谷沿いの山腹一面がウメで埋めつくされるほどの景観を生み出したという。江戸末期には、月ヶ瀬の「烏梅」は大阪や京都の問屋との取引も盛んになり、生産の最盛期を迎えた。それとともにこの地を訪れる文人墨客も多くなり、斎藤拙堂や頼山陽*3などが渓谷と梅林の景観美を「月ヶ瀬梅渓」として紹介したことによって全国的に知られるようになった。
 梅林の散策には、奈良市月ヶ瀬行政センターのある尾山から月ヶ瀬橋にかけての北岸に梅林公園を中心に遊歩道があり、一目八景・祝谷・帆浦・天神・鶯谷の梅林が並び、月ヶ瀬橋を渡った南岸には、一目万本などの景勝地がある。また、月ヶ瀬橋から2kmほど下流の八幡橋(桃香野)付近では、月ヶ瀬湖が屈曲し周囲の梅林を湖面に映している。開花期は2月中旬~3月。開花期には「梅まつり」が開催され、月ヶ瀬口駅から臨時バスも運行される(予定)。
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みどころ

1903(明治36)年のガイドブック「大和名勝」に「舟を浮かべて見るもよろしく、溪谷を跋渉して香雲を入るにも興あり。但し芳野、嵐山のごとく旅館のいかめしきものはあらず、さはれ鶯の宿を尋ねて、花下に丸寝さえんも風流なるべし」と記している。1895(明治28)年には約28,000本の梅木が植栽されていたと記録されているので、当時ほどの迫力はないものの、現在も一目八景や梅林公園周辺の高台から名張川の溪谷を見下ろす風景は、往時の雰囲気を十分に残し圧巻。まさに田山花袋の「梅、梅、梅」の世界である。梅林公園もよく整備されており、散策、あるいは、東屋で休息しながら、多種の梅の花を楽しむこともできる。尾山側の入口には、梅干しや烏梅などの製造販売をしている老舗の店もあり、その店構えからも江戸期からの梅の名所であることが分かる。八幡橋付近から、月ヶ瀬湖に映る梅の花を愛でるのも面白い。
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補足情報

*1 梅林の起源:この地のウメは、1205(元久2)年に真福寺境内に菅原道真を産土神として祀る際に植えられたのが始まりと伝えられている。また、口伝として、元弘年間(1331~1334)に後醍醐天皇が吉野ヘ落ち延びる際、月ヶ瀬に逃れた女官の姫若(園生姫)が村人に助けられ、紅花染めや化粧用の紅の媒染剤として使用される烏梅の製法を伝授したのが梅林の始まりとも伝えられている。そののち、江戸時代になると当初は大和郡山藩になり、その後幕府直轄領(天領)、再び大和郡山藩の領地と支配者が変遷し明治を迎えたが、江戸時代、とくに中期以降は烏梅のもととなるウメの生産地としての殖産に努めた。
*2 烏梅:黒梅とも呼ばれる。遣隋使、遣唐使により薬用として伝えられ、その後、紅花染めや化粧用の紅の色素の定着を媒介する媒染剤として、とくに江戸時代には広く使用された。明治以降、化学染料の普及により烏梅の需要は激減した。月ヶ瀬においては現在でも生産を続けているのは1軒のみ。
*3 斎藤拙堂や頼山陽など:斎藤拙堂は津藩の漢学者で、かつて伊賀国であった月ヶ瀬の梅を知らしめたいと、1830(文政13)年に月ヶ瀬を訪れ、「何地無梅。何郷無山水。唯和州梅溪花挾山水而奇。山水得花而麗。為天下絶勝。然地在州之東陬。頗幽僻。舊罕造觀者。名不甚顯」(いずれの地にウメのない所はないだろう。山、川のない郷もないだろう。ただ、大和の梅渓は、花が山と川が差し挟むように咲き珍しい。山、川、花が揃っていて麗しい。天下の絶佳の景勝だ。しかし、大和の国の東の片隅にあり、極めて人里を離れているので、もとは観に来る人はまれで、その名は広くは知られていなかった)と始まる紀行文・漢詩「月瀬記勝」(「梅溪遊記」九篇 と七言律詩十首)を出版し、「月ヶ瀬梅林」を詳しく紹介した。これを契機に生産地ということだけではなく、観光地としての「月ヶ瀬梅林」が広く知られるようになった。さらに翌年には、斉藤拙堂の「梅溪遊記」を添削したという漢詩人で史家の頼山陽が同地を訪れ、「非親和州香世界 人生何可説梅花」(大和の国の香りの世界に親しまずに、どうして梅花を説くことができようか)と、この地の梅林を称賛したという。その後、明治に入っても、幸田露伴、尾崎紅葉、田山花袋など多くの文人が訪れている。田山花袋は、斉藤拙堂や頼山陽の紀行文、漢詩から影響を受けて訪れたとして「この谷、この瀬、この阪路、この絶巓(山の頂)は、皆悉く梅を以て蔽われたりと。残雪のごとく白く、暮雲び如く微かなる梅花を以て満たされたりと。梅、梅、梅、に見ゆる限りところとして梅ならぬはなし」と激賞している。