西大寺
近鉄大和西大寺駅の南出口から徒歩3分。765(天平神護元)年、称徳天皇の勅願*1によって東の大寺(東大寺)に対する西の大寺として創建され、官大寺の一つとして大伽藍を誇った。平安遷都、そして数度の火災によって衰えたが、鎌倉時代に叡尊*2が出て復興に努め、真言律宗の道場として再興した。現在は、江戸時代に再建された本堂*3・愛染堂*4・四王堂*5などの堂宇や、寺宝を収蔵する聚宝館*6が建ち並ぶ。創建当初の面影は本堂前の東塔跡*7の基壇や、四王堂の四天王立像の足下の邪鬼などに遺す。
年中行事としては、巨大な茶碗で回し飲みをする茶儀である大茶盛式*8がある。
年中行事としては、巨大な茶碗で回し飲みをする茶儀である大茶盛式*8がある。
みどころ
商業施設やマンション、住宅に囲まれた近鉄大和西大寺駅の南出口を出て、少し行くと西大寺があり、大きな伽藍が建ち並び、異空間の体をなす。一方では、境内を歩いていると、隣接する幼稚園の器楽合奏や歌声が聞こえてきて微笑ましい。当寺の見どころは、各堂や聚宝館で拝観できる仏像群。本堂の釈迦如来立像、脇にある文殊菩薩騎獅像なども素晴らしいが、なんといっても愛染堂の木造興正菩薩叡尊坐像だろう。愛染堂では秘仏の木造愛染明王坐像も小さいながらも忿怒の形相に圧倒されるものの、極めて写実的で、がっしりとした骨格と、ゆったりとした風格のある叡尊坐像は極めつけの存在感を示している。当寺の仏像については、秘仏として公開時期が定められているものもある。事前に十分確認しておいた方がよい。
補足情報
*1 称徳天皇の勅願:奈良時代に作成された「西大寺資財流記帳」によると孝謙上皇が「去天平寶字八(764)年九月十一日。誓願将敬造七尺金銅四王像。彼寺矣。仍以天平神護元(765)年創鋳件像。以開伽藍也」と記しており、この日に藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱が発覚しているところから、反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願したとみられている。翌年には、孝謙上皇は重祚し称徳天皇となり、金銅製の四天王像を鋳造し、伽藍を開いた。これが西大寺の始まりとされる。
*2 叡尊:1201~1290年。鎌倉中期の律宗の僧。律宗の中興の祖といわれ、西大寺を本拠として戒律の復興に尽力。貧民・病人の救済にも注力した。鎌倉幕府北条家からも信を寄せられていた。
*3 本堂:東塔跡の北側に位置している。正面7間、側面4間、単層、寄棟造。1799(寛政11)年建立、総板壁の珍しい建築である。本尊は釈迦如来立像。1249(建長元)年叡尊の発願によって仏師善慶らが京都嵯峨の清凉寺にある釈迦如来像を模刻した像。像高167cm、釈迦在世中にその姿を写したという清凉寺式の特徴をよく写している。本尊の左脇には文殊菩薩騎獅像および四侍者像を安置、善財童子らの侍者を率いて海を渡る渡海文殊形式の木造彩色像。叡尊十三忌の1302(正安4)年作。
*4 愛染堂(あいぜんどう):本堂の南西に立つ。京都の近衛政所御殿を江戸時代に移築したもので、建築の中央が愛染堂、北側は客殿、南側は霊牌堂になっている。本尊は愛染明王坐像。1247(宝治元)年叡尊が仏師善円に作らせた鎌倉再興期の作。像高31.8cm、木造彩色。1281(弘安4)年の蒙古襲来のとき、叡尊の祈願に応じて一矢を放ち、敵を降伏させたという伝説がある。愛染明王の開扉期間は1月中旬~2月上旬、10月下旬~11月中旬。霊牌堂に安置する興正菩薩坐像は鎌倉肖像彫刻の秀作で国宝。像高91cm、木造、像内に多数の納入品があり、1280(弘安3)年叡尊80歳のときに弟子たちが仏師善春に作らせた寿像である。
*5 四王堂:東門の近くに立つ簡素な重層建築。本尊は木造十一面観音立像、像高590.8cm。1289(正安2)年に亀山上皇の院宣により京都白河十一面堂院の本尊であった十一面観音立像が客仏本尊として当堂に移されたもの。このため観音堂とも称されるが、現在の建物は江戸時代の再建。
本尊の周囲に安置される四天王像は、西大寺創建の由緒を唯一伝える像。多聞天は木造、ほか3躯は銅造で、いずれも室町時代に再興されたものだが、増長天が踏まえる邪鬼は創建当初の天平時代の作である。
*6 聚宝館:本堂の東にある収蔵庫。彫刻・絵画・工芸・書跡など多方面にわたる寺宝を収蔵し、一部を展示している。国宝では鎌倉期の金銅宝塔、国指定重要文化財では塔本四仏坐像(阿弥陀・釈迦・阿閦<あしゅく>・宝生如来坐像)、吉祥天女立像、大神宮御正体、行基菩薩坐像などがある。開館期間は1月中旬~2月上旬、4月下旬~5月上旬、10月下旬~11月中旬。
*7 東塔跡:南門から入ると正面にある。「続日本紀」によれば770(宝亀元)年2月に称徳天皇の勅願で東塔を建設しようとしたが、祟りによって「破却西大寺東塔心礎」(西大寺東塔の心礎を破却)したとの記録が残されている。この結果を受けたのか、「日本霊異記」では「我令仆乎法花寺幢、後西大寺八角塔成四角、七層減五層也」と太政大臣の藤原永手が八角七重塔を四角五重塔へと変更し、地獄に落ちたという説話が記されているところをみると、結局は四角五重塔になったとされている。しかし、1956(昭和31)年の発掘調査で八角の遺構が発見され、一旦は八角七層の工事が進められたのではないかとも推測されている。780(宝亀11年)の「西大寺資財流記帳 堂塔房舎」の条で「塔二基 五重。各高十五丈」と記されており、これらから四角五重塔は完成していたとみられ、高さ約46mに及ぶという東塔と、現在はすでに基壇も喪失している西塔が並び建っていたと見られる。延長年間(923~931年)に両塔が次々に雷火で焼失し、平安末期には東塔は再建修造されたものの、その東塔も1502(文亀2)年に焼亡。現在は東塔の巨大な基壇や礎石のみが遺る。
*8 大茶盛式:新春の式は1月16日、春の式は4月第2・日曜日とその前日の土曜、秋の式は10月第2日曜日。叡尊上人が1239(延応元)年に八幡神に献茶した際に、余服の抹茶を「一味和合」の精神のもと薬種として、参詣者に振舞ったことに始まる。春と秋は副席なども伴って大々的に開催する。事前の申し込みが必要(有料)。なお、30人以上の団体であれば、大茶盛のみの接待は事前申し込みにて受け付ける。
*2 叡尊:1201~1290年。鎌倉中期の律宗の僧。律宗の中興の祖といわれ、西大寺を本拠として戒律の復興に尽力。貧民・病人の救済にも注力した。鎌倉幕府北条家からも信を寄せられていた。
*3 本堂:東塔跡の北側に位置している。正面7間、側面4間、単層、寄棟造。1799(寛政11)年建立、総板壁の珍しい建築である。本尊は釈迦如来立像。1249(建長元)年叡尊の発願によって仏師善慶らが京都嵯峨の清凉寺にある釈迦如来像を模刻した像。像高167cm、釈迦在世中にその姿を写したという清凉寺式の特徴をよく写している。本尊の左脇には文殊菩薩騎獅像および四侍者像を安置、善財童子らの侍者を率いて海を渡る渡海文殊形式の木造彩色像。叡尊十三忌の1302(正安4)年作。
*4 愛染堂(あいぜんどう):本堂の南西に立つ。京都の近衛政所御殿を江戸時代に移築したもので、建築の中央が愛染堂、北側は客殿、南側は霊牌堂になっている。本尊は愛染明王坐像。1247(宝治元)年叡尊が仏師善円に作らせた鎌倉再興期の作。像高31.8cm、木造彩色。1281(弘安4)年の蒙古襲来のとき、叡尊の祈願に応じて一矢を放ち、敵を降伏させたという伝説がある。愛染明王の開扉期間は1月中旬~2月上旬、10月下旬~11月中旬。霊牌堂に安置する興正菩薩坐像は鎌倉肖像彫刻の秀作で国宝。像高91cm、木造、像内に多数の納入品があり、1280(弘安3)年叡尊80歳のときに弟子たちが仏師善春に作らせた寿像である。
*5 四王堂:東門の近くに立つ簡素な重層建築。本尊は木造十一面観音立像、像高590.8cm。1289(正安2)年に亀山上皇の院宣により京都白河十一面堂院の本尊であった十一面観音立像が客仏本尊として当堂に移されたもの。このため観音堂とも称されるが、現在の建物は江戸時代の再建。
本尊の周囲に安置される四天王像は、西大寺創建の由緒を唯一伝える像。多聞天は木造、ほか3躯は銅造で、いずれも室町時代に再興されたものだが、増長天が踏まえる邪鬼は創建当初の天平時代の作である。
*6 聚宝館:本堂の東にある収蔵庫。彫刻・絵画・工芸・書跡など多方面にわたる寺宝を収蔵し、一部を展示している。国宝では鎌倉期の金銅宝塔、国指定重要文化財では塔本四仏坐像(阿弥陀・釈迦・阿閦<あしゅく>・宝生如来坐像)、吉祥天女立像、大神宮御正体、行基菩薩坐像などがある。開館期間は1月中旬~2月上旬、4月下旬~5月上旬、10月下旬~11月中旬。
*7 東塔跡:南門から入ると正面にある。「続日本紀」によれば770(宝亀元)年2月に称徳天皇の勅願で東塔を建設しようとしたが、祟りによって「破却西大寺東塔心礎」(西大寺東塔の心礎を破却)したとの記録が残されている。この結果を受けたのか、「日本霊異記」では「我令仆乎法花寺幢、後西大寺八角塔成四角、七層減五層也」と太政大臣の藤原永手が八角七重塔を四角五重塔へと変更し、地獄に落ちたという説話が記されているところをみると、結局は四角五重塔になったとされている。しかし、1956(昭和31)年の発掘調査で八角の遺構が発見され、一旦は八角七層の工事が進められたのではないかとも推測されている。780(宝亀11年)の「西大寺資財流記帳 堂塔房舎」の条で「塔二基 五重。各高十五丈」と記されており、これらから四角五重塔は完成していたとみられ、高さ約46mに及ぶという東塔と、現在はすでに基壇も喪失している西塔が並び建っていたと見られる。延長年間(923~931年)に両塔が次々に雷火で焼失し、平安末期には東塔は再建修造されたものの、その東塔も1502(文亀2)年に焼亡。現在は東塔の巨大な基壇や礎石のみが遺る。
*8 大茶盛式:新春の式は1月16日、春の式は4月第2・日曜日とその前日の土曜、秋の式は10月第2日曜日。叡尊上人が1239(延応元)年に八幡神に献茶した際に、余服の抹茶を「一味和合」の精神のもと薬種として、参詣者に振舞ったことに始まる。春と秋は副席なども伴って大々的に開催する。事前の申し込みが必要(有料)。なお、30人以上の団体であれば、大茶盛のみの接待は事前申し込みにて受け付ける。
2024年12月現在
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