大安寺
JR関西本線(大和路線)奈良駅から南へ約2km、JR桜井線(万葉まほろば線)京終駅から西へ約1.7km、奈良市街南西部のはずれに見える小さな森が現在の大安寺境内である。もともとは、聖徳太子が平群郡に建立したという熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が草創*1と伝えられ、その後、舒明天皇の発願により寺地を遷し、十市郡(百済)で百済大寺となる。藤原京遷都では高市郡(飛鳥)に遷し、高市大寺あるいは大官大寺と呼ばれた。平城京への遷都においても、同寺も現在地に遷されることになり、天平年間(729~749年)に入って道慈*2が唐の西明寺の伽藍様式を模し大安寺式*3と呼ばれる壮大な大伽藍を造立し、寺号も大安寺と命名された。南都七大寺のうち三論宗の根本道場として重きをなし、南大寺とも呼ばれていた。中世以降、しだいに寺運が衰退*4し、明治の初めには堂塔のほとんどが失われていたというが、戦後に復興が進み、現在もなお境内の整備が続けられている。また、近年は「がん封じ」の祈願寺として知られる。
現在の本尊の十一面観音菩薩立像*5が祀られている本堂・一面六臂の馬頭観音立像が安置される嘶堂*6は近代の再建。本尊の十一面観音菩薩立像の開扉は10~11月。讃仰殿*7には楊柳観音立像*8などの諸仏が安置されている。境内の南、八幡神社付近に残る巨大な東西両塔跡が、かつての寺勢を伝えている。
現在の本尊の十一面観音菩薩立像*5が祀られている本堂・一面六臂の馬頭観音立像が安置される嘶堂*6は近代の再建。本尊の十一面観音菩薩立像の開扉は10~11月。讃仰殿*7には楊柳観音立像*8などの諸仏が安置されている。境内の南、八幡神社付近に残る巨大な東西両塔跡が、かつての寺勢を伝えている。
みどころ
奈良市の市街地を南西にはずれた郊外に長閑に建つ。かつての大寺の面影は全くないが、門前から離れた田畑の先の森の中に塔跡があると聞くと、いかに広大な境内だったか分る。現在の境内の広さは最盛期の約1/25で、本堂や嘶堂、讃仰殿などが建つくらいだが、収蔵する仏像群は、それぞれ特色があって素晴らしい。本尊の十一面観音は、精密に彫られた胸部の瓔珞(装身具)が見事で、豊満な姿態と着衣の布の流れは優美に表現されている。一方、楊柳観音は鋭い目つきで少し口が開き加減でまさに忿怒の形相であり、本尊とは対照的である。なお、讃仰殿にある楊柳観音は通年公開だが、本尊や馬頭観音は特別公開日以外は拝観できないので、事前に確認しておく方がよい。
補足情報
*1 草創:草創については747(天平19)年の「大安寺伽藍縁起幷流記資財帳」に聖徳太子との関係が詳しく説かれており、901(延喜元)年完成の「日本三代実録」の元慶4年10月20日の条では、その内容を要約して「聖徳太子創建平群郡熊凝道場。飛鳥岡本天皇(舒明)遷建十市郡百濟川邊。施入封三百戸。號曰百濟寺」としている。その後、高市郡と平城京への移建が記録されている。なお、聖徳太子創建の「熊凝道場」と大安寺の関係については、直接にはないとする学説もある。
*2 道慈:生年不明~744年。三論宗の僧。法隆寺にて三論を学び、さらに法相を修得。702(大宝2)年に入唐し、三論や密教を深く学んだ。718(養老2)年に帰国。大安寺の平城京への移建に尽力し、のち住して三論宗を広めた。
*3 大安寺式:かつての平城京では左京六条と七条の四坊に位置している。平城遷都にともない大官大寺を移築したと伝えられる。主要伽藍は南北に南大門・中門・金堂・講堂が一直線に配されているが、塔は六条大路を挟み南大門の南にあって、東西に2基並ぶ伽藍配置になっており、法隆寺、薬師寺、東大寺とも異なる大安寺式の伽藍配置になっている。現在は東塔跡に土壇と基壇延石、西塔跡には心礎が残っている。
*4 衰退:1666(寛文6)年成立の「和州寺社記」では「何比(いつころ)よりか衰微して諸佛の像も散々になりわつか二間四面の草庵にして往來の旅人の休み所となり哀れなり」としており、江戸中期の「大和名所図会」でも「いにしへは伽藍魏々(巨大)たり。今頽廢して漸く二間四面の草室に、諸像の仏面を住檐(軒)に拾ひあつめておかれしなり」と衰退ぶりを記している。
*5 十一面観音菩薩立像:天平時代の作。作者不明 像高190.5cm、一木造で一部後代補作。特別公開は10月~11月。国指定重要文化財。
*6 嘶堂:いななきどう。秘仏馬頭観音を安置。同寺の馬頭観音像は、千手観音の姿態で、馬頭がなく、忿怒の形相に胸飾りと蛇が足首に巻きつき、腰に獣皮をまとう極めて珍しい姿をしている。天平時代の作といわれ、馬頭観音の原初形態ではないかといわれている。国指定重要文化財。特別公開は3月。
*7 讃仰殿:境内の北東に立つ。1963(昭和38)年建立。2023(令和5)年に増改修しリニューアル。内部の壇上には四隅の四天王に守られて、聖観音・不空羂索観音・楊柳観音と、合せて7躯の木彫像が並んでおり、大安寺様式と呼ばれる重厚な造形で有名。いずれも天平末期から弘仁時代にかけての作とされる。また天平大伽藍のCG復元体験機がある。拝観有料。
*8 楊柳観音立像:大安寺の木彫像を代表する秀作。桧材一木造、彩色、像高168.5cm。観音像としては珍しい忿怒相ではあるが、おさえた静かな表現になっている。国指定重要文化財。讃仰殿で通年公開。
*2 道慈:生年不明~744年。三論宗の僧。法隆寺にて三論を学び、さらに法相を修得。702(大宝2)年に入唐し、三論や密教を深く学んだ。718(養老2)年に帰国。大安寺の平城京への移建に尽力し、のち住して三論宗を広めた。
*3 大安寺式:かつての平城京では左京六条と七条の四坊に位置している。平城遷都にともない大官大寺を移築したと伝えられる。主要伽藍は南北に南大門・中門・金堂・講堂が一直線に配されているが、塔は六条大路を挟み南大門の南にあって、東西に2基並ぶ伽藍配置になっており、法隆寺、薬師寺、東大寺とも異なる大安寺式の伽藍配置になっている。現在は東塔跡に土壇と基壇延石、西塔跡には心礎が残っている。
*4 衰退:1666(寛文6)年成立の「和州寺社記」では「何比(いつころ)よりか衰微して諸佛の像も散々になりわつか二間四面の草庵にして往來の旅人の休み所となり哀れなり」としており、江戸中期の「大和名所図会」でも「いにしへは伽藍魏々(巨大)たり。今頽廢して漸く二間四面の草室に、諸像の仏面を住檐(軒)に拾ひあつめておかれしなり」と衰退ぶりを記している。
*5 十一面観音菩薩立像:天平時代の作。作者不明 像高190.5cm、一木造で一部後代補作。特別公開は10月~11月。国指定重要文化財。
*6 嘶堂:いななきどう。秘仏馬頭観音を安置。同寺の馬頭観音像は、千手観音の姿態で、馬頭がなく、忿怒の形相に胸飾りと蛇が足首に巻きつき、腰に獣皮をまとう極めて珍しい姿をしている。天平時代の作といわれ、馬頭観音の原初形態ではないかといわれている。国指定重要文化財。特別公開は3月。
*7 讃仰殿:境内の北東に立つ。1963(昭和38)年建立。2023(令和5)年に増改修しリニューアル。内部の壇上には四隅の四天王に守られて、聖観音・不空羂索観音・楊柳観音と、合せて7躯の木彫像が並んでおり、大安寺様式と呼ばれる重厚な造形で有名。いずれも天平末期から弘仁時代にかけての作とされる。また天平大伽藍のCG復元体験機がある。拝観有料。
*8 楊柳観音立像:大安寺の木彫像を代表する秀作。桧材一木造、彩色、像高168.5cm。観音像としては珍しい忿怒相ではあるが、おさえた静かな表現になっている。国指定重要文化財。讃仰殿で通年公開。
2024年12月現在
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