不退寺ふたいじ

近鉄奈良線新大宮駅から北へ約1km、木立に囲まれた参道の先にある。正式な山号寺号は金龍山不退転法輪寺である。「大和国金龍山不退寺縁起」によると、平城天皇は809(大同4)年譲位後に、この地に茅葺(かやぶき)の仮殿(宮)を営み*1、第1皇子阿保(あぼ)親王、その子在原業平*2も引きつづいてここに住んだと伝えている。この地での寺院としての創建は、847(承和14)年に業平が自ら聖観音像を刻み、不退転法輪寺と称したのが起こりといわれ、不退寺あるいは業平寺とも呼ばれた。
 中世には南都15大寺の一つとも言われたが、その後、戦乱による堂宇焼失などで盛衰を繰り返した。江戸期には幕府より寺領50石*3が安堵されていたが、明治から大正期にかけては無住寺となった時期もあった。昭和初期以降、堂塔の修復修理が行われるようになり、境内庭園の整備も本格的に行われるようになった。
 現在は、参道から南大門*4を入ると木々に囲まれた本堂*5、境内東端に多宝塔*6が建ち、西側に庫裏*7があるこぢんまりとした佇まいをみせる古寺である。
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みどころ

現在は小さな古寺だが、本堂は鎌倉期建立のしっかりとしたバランスの良い形姿の堂宇である。本堂内には在原業平が自ら刻んだと伝わる本尊の聖観音立像、穏やかな表情をみせる五大明王像などみるべき仏像が多い。昭和40年代以降、境内の庭園の整備に力を入れ、現在は500種類以上の草花があり、一年にわたり季節の花が咲いている。平安期の代表的歌人在原業平について静かに思いを馳せるのには、うってつけである。
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補足情報

*1 仮殿(宮)を営み:「日本後紀」(840年編纂完成)では、平城天皇は退位し京都から奈良の平城宮に遷ったものの、権力を掌握しようとしたため薬子の変(810年)となり、それに敗北し、「廻輿旋宮。落髪爲沙門」と、宮に戻って出家したとしている。さらに「三代実録」(901年編纂完成)には「大和國平城京中水田五十五町四段二百八十八歩施捨不退寺超昇兩寺。先是。傳燈修行賢大法師眞如上表曰。件田。」(平城京の中の水田55町4段288歩を真如法師が不退寺と超昇寺の両寺に仏事料として施入した)としており、これが正史においての不退寺の初見である。なお、真如法師は平城天皇の第3皇子であった。
*2 在原業平:825~880年。平安時代の歌人。六歌仙、三十六歌仙のひとり。古今和歌集には30首が入集しているほか、勅撰集に多数取り上げられている。「伊勢物語」は業平の自作をもとに加筆されたものとされる。平城天皇の皇子阿保親王の5男。不退寺に遺されている在原業平朝臣画像(伝・江戸初期作。2幅あったとされ、古くからあったものは散逸)にも「右近衛権中将在原朝臣業平者平城天皇之玄孫阿保親王之五男なり。元慶第四暦蕤賓(元慶4年旧暦5月)二十八日 行年五十八卒」とし「大かたは月をもめでし是ぞ此つもれば人の老となるもの」(大概のことならば、月を愛することはすまい。この美しき月を眺める度数が重なると、人は老人になってしまふのだもの)という「伊勢物語」所収の和歌が「賛」として記載されている。散逸した画像の賛は陽成天皇(在位876~884)の宸翰であったという。
*3 寺領50石:安永年間(1772~1781年)に発行された「廣大和名勝志」には「寺領50石」との記載があり、1791(寛政3)年の「大和名所図会」では、不退寺境内の図絵で本堂、多宝塔、南大門、鐘楼、鎮守(住吉)社、庫裏などが描かれている。
*4 南大門:切妻造、本瓦葺の四脚門。鎌倉末期正和6年(1317)の銘をもち、棟木を支える束に特色がある。
*5 本堂:正面の桁行5間、側面4間、単層、寄棟造本瓦葺、鎌倉後期の造立。本尊は業平作と伝えられる像高190cmの聖観音立像で、豊満な藤原時代の木造彩色像。その周囲に安置されている五大明王像は奈良では珍しく5体がそろっており、おだやかな表現の藤原仏。
*6 多宝塔:棧瓦葺。宝形造で方3間、上層と相輪を欠く(当初は三層とされる)。一部に天竺様の手法も見られる鎌倉期の建築。