般若寺はんにゃじ

近鉄奈良線奈良駅から北東へ約2.2km、京都に向かう奈良街道の奈良坂に面し、軒の低い二階屋の民家が並ぶなかに楼門が立つ。舒明天皇(593~641)のころ、高句麗の僧慧灌*1がここに一宇を建て、654(白雉5)年、孝徳天皇の病気全快を祈って蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)が伽藍を創建したと伝えられる。さらに735(天平7)年、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため『大般若経』を塔の基壇に収め卒塔婆を造営したとされ、これが寺号の起こりといわれる。1180(治承4)年の平家による南都攻めの兵火で焼失後、鎌倉時代に西大寺の叡尊*2が復興したが、1567(永禄10)年の松永氏と三好氏による東大寺大仏殿の戦いに巻き込まれ、楼門*3を除く主要な堂宇を再び焼失した。いまは本堂*4・経蔵*5や十三重石塔*6、笠塔婆*7・宝蔵堂*8などが建ち、春にはヤマブキが、秋にはコスモスが咲く。
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みどころ

街道から入ると、まず、国宝の楼門。律儀でがっしりとした鎌倉期の建築様式が目を引く。楼門の奥正面には14mもある十三重石塔が存在感を示す。本堂に安置されている本尊の「文殊菩薩騎獅像」は、鎌倉期の高い造仏技術がみられ、ぜひ拝観したい。
 また、境内一帯には秋になると30種類、15万本ほどのコスモスが咲き競い、境内に並ぶ石仏石塔を囲み、のどかな風情を作り出す。秋以外も春はヤマブキ、初夏はアジサイ、冬はスイセンなど、それぞれの季節の花々が境内を彩る。
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補足情報

*1 慧灌:えかん。生没年不詳。日本書紀には625(推古天皇33)年春の項に「高句麗王貢僧慧灌 仍任僧正」と、高句麗からの渡来僧であることが記載されている。元興寺に住み、日本における三論宗の始祖ともいわれる。
*2 叡尊:1201~1290年。鎌倉中期の律宗の僧。律宗の中興の祖といわれ、西大寺を本拠として戒律の復興に尽力。貧民・病人の救済にも注力した。鎌倉幕府北条家からも信を寄せられていた。北山十八間戸を創設した忍性の師でもある。当寺を文殊信仰を軸に復興した叡尊は1269(文永3)年の「叡尊文殊菩薩供養願文」のなかで「白檀丈六之像」を南に「死屍之墳墓」があって、北に「疥癩之屋舎」(ハンセン病患者・元患者の療養施設「北山十八間戸」の旧地)がある般若寺に文殊菩薩を奉安安置し飢苦病者の加護を祈ると記している。この丈六の文殊菩薩像は1567(永禄10)年の戦火によって焼失している。
*3 楼門:国宝。1267(文永4)年、叡尊らによる再興伽藍の廻廊の西門。1567(永禄10)年の兵火で正門は失われ、寺の境内を通っていた奈良街道に面した楼門のみが残された。2層の入母屋造、本瓦葺。和様が基調ではあるが、天竺様の影響も見られる。
*4 本堂:1667(寛文7)年の再建。入母屋造。本堂には文殊菩薩騎獅像が安置されている。この仏像については、般若寺が鎌倉時代後期に南朝方であったところから、後醍醐天皇の勅願により天皇護持僧文観が倒幕祈願のために造像したもので、像高45.5cm。精緻な彫仏で、台座銘には鎌倉期の仏師、康俊・康成らの名がみられる。
*5 経蔵:国指定の重要文化財。鎌倉時代の建立。一切経を収納している。 この蔵は「太平記」の第5巻「大塔宮熊野落事」では、元弘の乱(1331年)で笠置城が陥落し、鎌倉幕府に追われた大塔宮護良親王が熊野へ落ちる途中、般若寺に立ち寄り「佛殿の方を御覧するに、人の読懸て置きたる大般若の唐櫃三つあり。二の櫃は未開蓋、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して、蓋をもせざりけり。此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮めて伏させ給ひ、其上に御経を引かずきて」隠れ、なんとか危難を逃れられたと伝えられている。
*6 十三重石塔:楼門奥の正面に立つわが国最大級の多重石塔である。高さ約14m、1253(建長5)年の造立。宋人石工伊行末・伊行吉の親子の作。下部の方石に四方仏の美しい線彫がある。花崗岩製、相輪は昭和の模造。
*7 笠塔婆:2基あり、ともに花崗岩製、高さ約5m。伊行末の子行吉が父母の供養のために1261(弘長元)年に造立したもの。
*8 宝蔵堂:庫裏前にある収蔵庫。十三重石塔の旧相輪や多数の塔内納入品、嵯峨天皇宸筆と伝える扁額、親王伝説の唐櫃など多数の寺宝を収蔵展示している。