圓成寺
近鉄奈良線奈良駅から東へ約12km、忍辱山(にんにくせん)*1の山号をもつ柳生街道沿いの第一の古刹。赤松や杉が茂り、苑池の広がる浄土式庭園*2と一段高く立つ瀟洒な楼門*3、さらに奥の本堂*4や本堂左手にある丹塗(にぬり)の白山堂・春日堂と宇賀神本殿*5が背後の森に包まれる幽邃境となっている。同寺の縁起*6では、756(天平勝宝8)年に聖武天皇の勅願により唐僧虚瀧(ころう)が開創したと伝えられ、寺号は「忍辱施寺」だったとされる。「圓成寺」の寺号は京都東山の圓成寺の益信(本覚大師)が同地で修行したことに因み、中興の祖となる命禅が1026(万寿3)年に付したことに始まるという。1153(仁平3)年には仁和寺の寛遍が入り、寺勢の隆盛をみた。その後1466(文正元)年の応仁の乱で堂宇が焼失したものの、その直後から伽藍の復興がなされ、江戸時代には大寺として知られた。明治になって衰微したが、昭和以降、本尊の阿弥陀如来坐像*7が安置される本堂の解体修理、及び多宝塔の再建、国宝の大日如来坐像*8を安置する相應殿の建立、庭園の整備、仏像の修復が進められ、往時には及ばないものの、寺観を取り戻している。
みどころ
圓成寺には、駐車場のある東門からアプローチすると、左手は一段高くなってこんもりとした生垣や林が続き、右手に浄土式庭園の庭が広がる。拝観の受付は、右手上に楼門を過ぎた先にある。ここからみた庭園の景観も良いが、少し足を延ばして、池の反対側に回って、池越しに楼門を見る方が美景。屋根の曲線が見事で、存在感のある楼門が、境内の豊かな緑を背にし、それを水面に映す様は、まさに浄土式庭園に相応しい。拝観受付を入ると、左手に再建された多宝塔、左手奥に国宝の大日如来坐像が安置されている相應殿。大日如来坐像はすっきりとした姿で、細部にまで繊細な彫仏技術が冴えわたる、青年期の運慶の作品を間近に鑑賞でき、必見。右手に戻り、多宝塔を過ぎると、ゆったりと大屋根を広げる本堂が建つ。室町時代の建立というが、藤原時代の寝殿造を模しているとのことで、雅の風を感じさせる。内陣は須弥壇の4本の柱に極彩色の菩薩像が描かれ、本尊を安置する厨子も美しく華やか。ゆったりと安定感のある本尊の阿弥陀如来坐像が際立つ演出になっている。本堂前から振り返り、楼門越しに見える庭園もまた美しい。
補足情報
*1 忍辱山:忍辱とは菩薩行六波羅蜜(ろくはらみつ:布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の一つで、いかなる苦悩にも忍耐する修行。付近には忍辱山をはじめ誓多林(せたりん)・大慈仙などの変わった地名がある。これらは、成道(釈尊が出家した後、苦行修練し悟りに至る道)に由来して山号が付された北大和五山(忍辱山圓成寺、菩提山正暦寺、鹿野園梵福寺、誓多林万福寺、大慈山薬師寺)の名残である。現在は、圓成寺と正暦寺以外の3寺は廃寺。
*2 浄土式庭園:平安時代に寺勢を隆盛させた寛遍が造ったとみられる、浄土式と舟遊式を兼ね備えた庭園。1975~1976(昭和50~51)年に発掘調査とともに環境の整備を図った。江戸中期の「大和名所絵図」にも同池は現在と同様に楼門下の境内の前面に大きく描かれている。
*3 楼門:1468(応永2)年の再建。3間1戸、入母屋造、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根の曲線が美しく木割が細いため軽快な趣がある。和様と天竺様が併用された花肘木が必見。
*4 本堂:正面5間、側面5間、妻入(つまいり)入母屋造、左右に1間の廂を、前に向拝を付けているため春日造の社殿を思わせる一方、向拝には床を一段高くした舞台を設け、廂の内部を小房に分けるなど寝殿造の様式も見られる。内部は四方流化粧屋根裏や来迎二十五菩薩を極彩色で描いた四本柱や反華座を備えた阿弥陀堂で、1466(文正元)年の再興ながら藤原時代のものを忠実に具現している。本尊は阿弥陀如来坐像である。
*5 白山堂・春日堂と宇賀神本殿:白山堂と春日堂は円成寺の鎮守社で、1228(安貞2)年の建立。ともに一間社春日造、桧皮葺。春日造として現存する最古のものとして知られ、国宝。白山神社の隣には春日造に唐破風の向拝をつけた室町時代の造立の宇賀神本殿がある。宇賀神は農耕神あるいは蛇神・龍神ともされる。
*6 縁起:「和州忍辱山圓成寺縁起」は1612(慶長17)年以降の成立といわれる。寛文年間(1661~1673年)の編纂の「和州寺社記」では「後白川院の御宇 寛辨(遍)大僧正の開基し給ふ」としている。江戸中期の「大和名所図会」では縁起と同じ唐僧虚瀧の開創としている。
*7 大日如来坐像:国宝。もとは多宝塔の本尊であったが、現在は相應殿に安置されている。智拳印を結ぶ金剛界の大日如来で蓮華座の中の墨書銘により仏師運慶20歳代の作であることが知れる。木造、漆箔で藤原末期の作ながら、すでに鎌倉彫刻の特徴である写実的作風がみられ、天才の青年期にふさわしい作品。
*8 阿弥陀如来坐像:典型的な藤原末期、定朝様式の仏像。華麗な宝相華、唐草透彫の光背とともに時代の特色を示す。
*2 浄土式庭園:平安時代に寺勢を隆盛させた寛遍が造ったとみられる、浄土式と舟遊式を兼ね備えた庭園。1975~1976(昭和50~51)年に発掘調査とともに環境の整備を図った。江戸中期の「大和名所絵図」にも同池は現在と同様に楼門下の境内の前面に大きく描かれている。
*3 楼門:1468(応永2)年の再建。3間1戸、入母屋造、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根の曲線が美しく木割が細いため軽快な趣がある。和様と天竺様が併用された花肘木が必見。
*4 本堂:正面5間、側面5間、妻入(つまいり)入母屋造、左右に1間の廂を、前に向拝を付けているため春日造の社殿を思わせる一方、向拝には床を一段高くした舞台を設け、廂の内部を小房に分けるなど寝殿造の様式も見られる。内部は四方流化粧屋根裏や来迎二十五菩薩を極彩色で描いた四本柱や反華座を備えた阿弥陀堂で、1466(文正元)年の再興ながら藤原時代のものを忠実に具現している。本尊は阿弥陀如来坐像である。
*5 白山堂・春日堂と宇賀神本殿:白山堂と春日堂は円成寺の鎮守社で、1228(安貞2)年の建立。ともに一間社春日造、桧皮葺。春日造として現存する最古のものとして知られ、国宝。白山神社の隣には春日造に唐破風の向拝をつけた室町時代の造立の宇賀神本殿がある。宇賀神は農耕神あるいは蛇神・龍神ともされる。
*6 縁起:「和州忍辱山圓成寺縁起」は1612(慶長17)年以降の成立といわれる。寛文年間(1661~1673年)の編纂の「和州寺社記」では「後白川院の御宇 寛辨(遍)大僧正の開基し給ふ」としている。江戸中期の「大和名所図会」では縁起と同じ唐僧虚瀧の開創としている。
*7 大日如来坐像:国宝。もとは多宝塔の本尊であったが、現在は相應殿に安置されている。智拳印を結ぶ金剛界の大日如来で蓮華座の中の墨書銘により仏師運慶20歳代の作であることが知れる。木造、漆箔で藤原末期の作ながら、すでに鎌倉彫刻の特徴である写実的作風がみられ、天才の青年期にふさわしい作品。
*8 阿弥陀如来坐像:典型的な藤原末期、定朝様式の仏像。華麗な宝相華、唐草透彫の光背とともに時代の特色を示す。
関連リンク | 圓成寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
圓成寺(WEBサイト) 「大和名所図会」早稲田大学図書館 37・38枚目 忍辱山圓成寺 パンフレット 「大和志料 上巻」奈良県教育会 大正3年 213/446 国立国会図書館デジタルコレクション 「和州寺社記」76/108 国立国会図書館デジタルコレクション |
2024年12月現在
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