秋篠寺あきしのでら

近鉄奈良線大和西大寺駅から北西に約1.2km、秋篠の里にあり、境内に入ると苔むした前庭が広がる。創建については諸説ある。当地の豪族・秋篠氏の氏寺だったともいわれるが、寺伝では780(宝亀11)年頃*1、光仁天皇の勅願により法相宗の六祖*2のひとり善珠が開いたとされる。奈良時代最後の官寺であり、造営は次の桓武天皇の代まで続いたと伝えられている。1135(保延元)年の兵火で建物のほとんどを焼失、わずかに残った講堂を修理して本堂*3とした。この本堂は現在、国宝に指定されており、堂内には本尊の薬師三尊像*4、伎芸天立像*5、帝釈天立像*6などの天平期から鎌倉期の仏像が安置されている。焼失した金堂跡は現本堂の南のうっそうとした木立の中にあり、また塔跡も南門を入った茂みの中に残る。また本堂左手にある大元堂には、鎮護国家修法の本尊で秘仏の大元帥明王立像*7が安置されている。
#

みどころ

南門あるいは、駐車場近くの東門から境内に入ると、木立の中に苔むした前庭が広がる。木洩れ日が苔の緑に微妙な色の変化を付ける。この光景を五木寛之は「秋篠寺の『苔庭』である。その美しさに息をのむ思いがした。さきほどからの雨に濡れて水分をたっぷり吸っているだけに、苔の緑がいきいきとしていて、まるで“苔の海”だ」と絶賛している。受付からさらに奥に入ると、左手に大元堂、正面奥に本堂が建つ。創建当初の講堂を鎌倉期に大改修したバランスのよい建物で、伸びやかな大屋根も印象的だ。堂内には本尊の薬師如来像が安置され、両脇侍の日光、月光の菩薩像もすばらしいが、何といっても伎芸天が魅力的だ。五木寛之は「左端に立つ優美な像。謎めいたほほえみを浮かべている顔。それが伎芸天だった…中略…かすかに首をかしげたような感じがする。流し目、と言っては失礼かもしれないが、こちらのほうへ視線を向けているような、向けていないような、なんともいえない表情をしていらっしゃる。どうしても気になってしかたがない」と、その魅力を語っている。さらに小説「風立ちぬ」で知られる堀辰雄が「ミュウズ」(ミューズ:ギリシャ神話で知的活動を司る女神)とまで呼んだことを紹介している。その堀辰雄は「このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱(あか)い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香(こう)にお灼(や)けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……」と描写している。この寺での苔庭と本堂内の仏像との対面は、心豊かにしてくれるものがある。
#

補足情報

*1 780(宝亀11)年頃:「続日本紀」の780(宝亀11)年6月の条には「封百戸永施秋篠寺。其權入食封。限立令條。」と封戸百戸が施入されていることが記されているので、創建はそれ以前に行われていたと考えられる。
*2 法相宗の六祖:善珠・玄賓・行賀・常騰・玄昉・神叡の6人の祖師。なお、法相宗は南都六宗のひとつ。法相宗のほか、三論宗・成実宗・倶舎宗・華厳宗・律宗を指し、南都仏教ともいう。
*3 本堂:基壇上に立つ。正面5間、側面4間、単層、寄棟造、本瓦葺。内部の須弥壇上に薬師三尊を中心として諸仏が左右に並ぶ。
*4 薬師三尊像:もともと1具のものではなかったらしく、本尊の薬師如来は室町時代に作られた貞観風の素木像で、脇侍の日光・月光菩薩は平安後期の作とみられる彩色像。
*5 伎芸天立像:ぎげいてん。本堂内の左端に立つ美しい彫像。秋篠寺の仏像のなかでもっとも有名である。頭部は天平末期の乾漆で、体躯は鎌倉時代の木彫彩色像であるのに、少しも不自然さを感じさせず、みごとな調和を見せている。首をややかしげ、静かな笑みをたたえる表情や豊満な姿態に心ひかれる人が多い。
*6 帝釈天立像:たいしゃくてん。この像も伎芸天と同じく、天平の乾漆の頭部に鎌倉の木造の体躯を補作したもの。
*7 大元帥明王立像:たいげんみょうおう。本堂の西にある大元堂の本尊で、像高229.5cm。木造、1面6臂の立像で、全身に蛇を巻きつけた忿怒の形相。鎌倉時代の作と推定される秘仏。毎年6月6日に特別公開。
関連リンク 一般財団法人奈良県ビジターズビューロー(WEBサイト)
参考文献 一般財団法人奈良県ビジターズビューロー(WEBサイト)
五木寛之「百寺巡礼第一巻 奈良」講談社 Kindle 版
秋篠寺小誌・尊像略記パンフレット
「国史大系 第2巻 続日本紀」経済雑誌社1897~1901年 327/405 国立国会図書館デジタルコレクション
堀辰雄「大和路・信濃路 十月」 Kindle版

2024年12月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。