信貴山朝護孫子寺しぎさんちょうごそんしじ

近鉄生駒線信貴山下駅から約2.6km、生駒山系の南端、信貴山(標高437m)の南東中腹に広大な境内をもつ。ずらりと並ぶ千体地蔵を右に仁王門をくぐり、無数の石燈篭のつづく参道の先に本堂をはじめ朱塗の三重塔、多宝塔、霊宝館*1など多くの堂宇が軒を接している。なかでも鉄筋コンクリートで1958(昭和33年)に再建された舞台造の本堂は、急崖に張り出し目を引くものがある。
 創建のいわれについては、6世紀後半、聖徳太子*2は排仏派の物部守屋*3との戦いの戦勝をこの山に祈願したところ、寅年、寅日、寅の刻に毘沙門天の出現を感得し、その加護により戦いに勝利したという。このため、太子が自ら刻んだ毘沙門天像を勧請*4し、この地を「信ずべし、貴ぶべき山」の「信貴山」として堂宇を建立したという太子伝説が遺されている。
 910(延喜10)年には同寺の中興の祖となる命蓮が毘沙門堂を建立したとされる。さらに醍醐天皇の病気快癒を毘沙門天に祈願し、全快したところから、「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号が下されたという。1560(永禄3)年松永久秀*5は信貴山城を築いたが、織田信長に攻撃され、1577(天正5)年、自ら城に火を放って自刃した。この折に焼亡した寺は1602(慶長7)年、豊臣秀頼の力で復興、江戸時代には徳川氏の崇敬を受けて繁栄した。
 現在においても本尊毘沙門天は寅に縁ある神として信仰を集め、縁日となる寅の日を中心に参詣者が多く、門前には張子の虎を売る店が並ぶ。
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みどころ

舞台造の本堂を中心に信貴山の山腹に諸堂が所狭しと並ぶ姿は壮観。 参道に入ると、すぐに鮮やかな黄色の大寅(虎)が待ち構え、その先の高みに本堂を遠望できる。諸堂の間の狭いアップダウンのある道をたどり本堂に到着すれば、奈良盆地の眺めが素晴らしい。諸堂もそれぞれの霊験があるので、帰路には山腹の諸堂を巡るのも楽しみ。
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補足情報

*1 霊宝館:本堂脇にある。聖徳太子や命蓮上人に関する寺宝、楠木正成の甲胄類、筒井順慶らの書状、そのほか経典、文書類を保存・展示する。収蔵品でとくに知られるのは国宝「信貴山縁起絵巻」。この絵巻は「源氏物語絵巻」、「鳥獣人物戯画」、「伴大納言絵詞」などと並ぶ貴重な絵巻とされる。中興の祖・命蓮の奇跡譚を描いたもの。平安時代後期の作と伝えられるが作者不詳。国宝の原典の絵巻は期間限定で展覧され、通常は江戸時代の模本を展示している。
*2 聖徳太子:574~622年。用明天皇の第2皇子。推古天皇の摂政として十七条憲法制定など政治体制の整備を行ったとされる。また、大陸文化の導入に努め、とくに仏教興隆に尽くしたという。排仏派の物部守屋などとは対立し、中央豪族の蘇我馬子とともに物部氏を排除した。
*3 物部守屋:生年不詳、587年没。敏達天皇、用明天皇のもとで大連(おおむらじ)を務めた中央豪族。排仏派で仏教容認の用明天皇を廃して、穴穂部皇子を立てようとしたが、蘇我馬子・聖徳太子連合軍に逆襲され敗死した。
*4 毘沙門天像を勧請:「日本書紀」では587(崇峻天皇元)年秋7月の項に聖徳太子が物部守屋との戦いに従軍し「白膠木(ぬるで・ ウルシ科の落葉小高木)を斮(伐)り取りて、疾く四天王の像を造り、頂髪(たきふさ)に置きて、誓ひを發てゝ言(いわ)く。今、若し我をして敵に勝たしめば、護世四天王の奉爲(みため)に、寺塔を起立むと」とあるが、これと信貴山との関係は不明。
*5 松永久秀:1510~1577年。戦国時代の武将。当初は三好長慶に仕えていたが、長慶の子を毒殺したり、室町幕府13代将軍足利義輝を自殺に追い込んだり、また、筒井順慶との戦いでは東大寺大仏殿を焼払うなど専横を極めた。信貴山城を築城し居城としたが、織田信長との戦いに敗れた。