橘寺たちばなでら

近鉄吉野線飛鳥駅から東へ約2.2km、飛鳥川の左岸、川原寺跡の南に対面して建つ。現在は、田園風景のなかに本堂(太子殿)、経堂、観音堂などの堂宇*1が並ぶ。本堂には本尊で国の重要文化財に指定されている木造聖徳太子坐像*2が安置されている。なお、正式名称は仏頭山上宮皇院菩提寺という。
 創建*3について明確ではないが、寺伝では聖徳太子誕生の地*4と伝えられ、推古天皇の発願*5によるものとも、聖徳太子建立七大寺の一つ*6とも伝えられている。8世紀の最盛期には66の諸堂を連ねていたという。1953(昭和28)年、1956~1957(昭和31~32)年の境内及び周辺の発掘調査で東向きの四天王寺式伽藍配置であることが確認されたが、のちの調査結果から、現在では山田寺式伽藍配置の可能性も指摘されている。境内には3方に心柱の添え木の根をうける半円の孔をもった塔心礎や畝割塚*7、二面石*8など、往時の遺跡がみられる。なお橘の地名は田道間守(たじまもり)の伝説*9に由来しているといわれている。
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みどころ

近鉄飛鳥駅や岡寺駅から多武峰に向かう県道は、気持ちの良い田園風景を展開するが、飛鳥川の手前で、北側に川原寺の旧跡が広がり、南側はこんもりとした丘陵を背にした土塀と甍が続く。これが橘寺である。往時は、威風堂々とした伽藍が建ち並んでいただろうが、今は飛鳥の里ののんびりとした風景に溶け込み、威圧感のない寺の姿で、気持ちを和ませてくれる。境内はさほど広くないが、聖徳太子の事績やその後の法燈の歴史を垣間見ることはできる。また、土塀越しに見る、川原寺の旧跡(弘福寺)や周囲の丘陵や田園の風景も美しい。聖倉殿(収蔵庫)では、寺宝の絹本着色太子絵伝8幅(伝土佐光信筆)などが春秋に特別公開されるので、開催時期などを事前に確認して訪れたいものだ。
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補足情報

*1 堂宇:平安時代から寺勢の衰退が始まり、室町時代には戦乱などに巻き込まれ寺勢の衰えは著しかった。江戸時代になってから伎楽、猿楽、能楽の伝承で同寺と関係が深かった金春流などの勧進により、再興が図られたという。江戸中期の「大和名所図会」には太子堂や観音堂が描かれているが、現在の遺されている堂宇の大半は江戸末期から明治初頭に再建されたもの。
*2 木造聖徳太子坐像:勝鬘経(しょうまんきょう)を講讃する太子35歳のときの姿。極彩色、室町時代の優作。
*3 創建:創建に関する明確な記録は残されていないが、「日本書紀」の680(天武天皇9)年4月の条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるので、この頃までには伽藍が整備されていることがわかる。また、発掘調査によって、ほぼ東西方向に中門・塔・金堂・講堂が並ぶ伽藍配置であることが判明しており、すぐ北側には川原寺が同時期に造営されていることなどから、金堂の造営が7世紀の前半頃、講堂の造営が8世紀ではないか、と考えられている。さらに、粘土で型を抜き焼いた板状の仏像である塼仏(せんぶつ)が多量に出土したことから、川原寺同様に堂宇を三尊塼仏で飾っていたと推測されている。
*4 聖徳太子誕生の地:不明なところが多いが、日本書紀では「皇后懐妊開胎之日。巡行禁中。監察諸司至馬官。乃當厩戸。不勞忽産之」と、皇后が宮の中の各役所を監察に巡回していたところ、産気づき、馬を管理する場所で産んだのが聖徳太子だったという記事を載せている。この宮が舒明天皇の別宮・橘の宮ともいわれるが、この宮と現在の橘寺との関係は明らかにはなっていない。
*5 推古天皇の発願:「日本書紀」では606(推古天皇14)年秋7月に「天皇請皇太子。令勝鬘経。三日説竟之」と天皇に請われ、聖徳太子は勝鬘経を講讃していると記録しているが、平安期の「聖徳太子伝暦」では、この講義が終った夜に「蓮花零。花長ニ三尺。而溢方三四丈之地。明旦奏之」とし、蓮華の花が咲きこぼれたので、奏上したところ、推古天皇がこれを見て、「即於其地誓立寺堂。是今橘寺也」と、橘寺の造立を誓ったとしている。
*6 七大寺:奈良時代の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」には、推古天皇と聖徳太子が法隆寺、四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂岳寺(広隆寺)、池後尼寺(法起寺)、葛城尼寺の7つの寺を造ったとしている。
*7 畝割塚(うねわりづか):本堂の東側にある土壇のことで、大化改新のときに一畝(いつせ)の広さの基準を示したものという。また聖徳太子が勝鬘経講讃の折り、天から降った蓮華を埋めたという伝えがあり、蓮華塚ともいう。
*8 二面石:善悪2つの顔を彫ったと伝えられる、奇妙な形をした花崗岩の石像。
*9 田道間守の伝説:古事記に記載されている伝説で、古事記ではその名を「遅摩毛理」と表記されている。また、日本書紀にも同様の説話が記載されている。「日本書紀」では、垂仁天皇の時、「天皇命田道守。遣常世國。令求非時香菓(トキジクノカグノコノミ)。今謂橘是也。」と、田道間守が勅命により不老長寿の薬を求め常世国に行ったと記しており、さらに10年かけて捜し求めて帰国したところ、天皇はすでに崩御していたため、殉死したという説話になっている。その持ち帰った橘(柑橘類の一種)を、この地に植えたということで、当地を「橘」と呼ぶようになったと伝えられている。