大乗寺だいじょうじ

JR山陰本線香住駅から南へ1.7km、北流する矢田川が左右に大きく屈曲する懐部分にあり、かつては門前町として賑わったと思われる通りの真ん中あたりに丘を背にして建つ。大乗寺は「応挙寺」ともよばれ、円山応挙*1が長子応端、長沢芦雪*2など門弟12名とともに客殿13部屋に襖絵などとして描いた障壁画165面が遺されている寺として知られている。これらの障壁画は、中央の仏間を中心に13部屋が曼荼羅(宇宙の真理を視覚化したもの)を表現し、各部屋間はもとより、庭、あるいは周囲の川、山、そして日本海などにもつながりをもった芸術的な立体空間を演出している。また、客殿の中央の仏間には、木造十一面観音立像*3が安置され、本来なら守護として四天王像が置かれるが、その代わりに同寺では四方の部屋の障壁画でそれを表現している。客殿2階の部屋には、高弟の長沢芦雪、源琦の描いた「群猿図」、「水禽図」が襖絵となっている。
 なお、現在は保存のため、一部の障壁画(応挙筆3部屋の襖絵)については収蔵庫に保管し、客殿ではデジタル再製画で公開している。
 同寺の創建については、寺伝では、745(天平17)年に行基*4が開基として始まったとされるが、定かではない。ただ、寺蔵の多聞天立像に1097(永長2)年開眼の墨書があり、さらに永徳年間(1381~1384年)の大般若経巻が同寺に施入されたことが分かっているので、平安期から南北朝期にかけては隆盛していたと思われる。その後、一時衰退したものの、1711(正徳元)年に観音堂が再建され、さらに密蔵・密英の2代にわたる住職の尽力により、1794(寛政6)年に客殿・庫裏などが竣工した。この再建の際に、かつて密蔵が無名だった若い頃の応挙を支援していたことから、報恩の意味を含め、応挙一門を挙げて襖絵(障壁画)を描いたといわれている。
 拝観については自由拝観はなく、案内人の解説付きで拝観する(寺務所で受付・有料)。
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みどころ

門前の通りから境内に入ると石垣が構えられており、その上に山門が立つ。それをくぐると正面が客殿の玄関となるが、そこには応挙の坐像が凛として安置されている。右手に行くと庫裏になっており、そこで申し出ると、解説付きで各部屋を丁寧に案内してくれる。応挙一門の障壁画は素晴らしいの一語に尽きるが、その宇宙観、宗教観などを知るとさらにその奥深さが分かるので、解説付きの案内は必須だ。
 志賀直哉も「暗夜行路」の中で主人公をこの大乗寺に立ち寄らせ、「應擧(応挙)の書生時代、和尚が應擧に銀十五貫を與へた。應擧はそれを持って江戸に勉強に出た。その報恩として、後年此寺が出来た時に一門を引き連れ、寺全體の唐紙へ揮毫したものだといふ」とし、「應擧は書院と次の間と佛壇の前の唐紙を描いてゐた。書院の墨繪(絵)の山水が殊によく思はれた。如何にも律氣な繪だった。次の間は郭子儀、これには濃い彩色があり、もう一つは松に孔雀の繪だった。呉春の四季耕作圖(図)は温厚な感じで氣持よく、蘆(芦)雪の群猿圖は奔放で如何にも蘆雪らしく」と作品ひとつひとつに主人公の感想を丁寧に記述している。確かに客殿を回っていると応挙一門の技量の高さと構想力を体感できる。
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補足情報

*1 円山応挙:1733~1795年。江戸中期の画家。丹波(京都府)の農家に生まれ、狩野派に学んだ。円山派の創始者。西洋画の遠近法や陰影法、明などの写生画体などを取り入れ、日本の装飾画法と融合させた近世写生画の祖でもある。親しみやすい画風で町民層から支持が篤かった。代表作に『七難七福図巻』『保津川図屛風』『雪松図屛風』などがあり、大乗寺の障壁画は最晩年の作品。
*2 長沢芦雪:1754 ~1799年。丹波篠山藩(現・兵庫県)の武士の家に生まれる。江戸中期に京都で活躍した画家。円山応挙の高弟。卓越した描写力と奇抜な着想と大胆な構図で、独自の世界観を提示している。
*3 木造十一面観音立像:左手には水瓶を持ち、右手は垂れて、人々の願いを受け止める手の形をしている。頭上の十一面は頂上仏面を含めて縦に三段。目は切長で慈悲深い眼差し。平安時代末期の作。桧の寄木造。
*4 行基:668~749年。百済系渡来人の子として生まれる。奈良時代初期の世相不安のなかで、諸国を歴遊しながら社会活動を行った。このため行基を開基とする寺院は全国各地にあるが、伝承にとどまるところも多い。