斑鳩寺
JR山陽本線網干駅から北へ約3kmの鵤(いかるが)地区にある。創建の年代は不詳であるが、寺伝では 606(推古天皇14)年に聖徳太子が飛鳥豊浦宮(現・奈良県明日香村橘寺) で天皇の御前で勝鬘経を講説したところ、播磨国揖保郡の水田100町*1を賜り、その地に伽藍を建てたのが斑鳩寺の始まりとされる。その後、この地は法隆寺領鵤荘と呼ばれ、斑鳩寺は法隆寺の末寺として、寺領の荘園経営と深い関係にあったとされる。平安後期12世紀頃には多くの伽藍・坊院が建ち並んでいたと伝えられている。戦国時代に入り、1541(天文10)年、戦乱から境内に逃れた避難民の小屋から出火し、全焼した。
その後、順次再建されたが、1580(天正8)年、秀吉の播磨平定に伴う知行配分と寺領の寄進により法隆寺領鵤荘は消滅し、同年に斑鳩寺は寺領として300石の寄進を受けたが、その翌年150石に減らされ、かつての寺勢を失った。江戸後期の「播磨名所巡覧図会」では周辺に水田が広がり、境内の伽藍は現在と同じ配置に描かれている。なお、再建後、比叡山を本山とする天台宗となった。
現在は仁王門をくぐると、正面に講堂*2、右手に三重塔*3、鐘楼と並び、左手には、聖徳殿が建つ。聖徳殿の奥殿には聖徳太子孝養像*4が安置されている。また、講堂左手裏には木造十二神将立像などが収められた宝物殿「聖宝殿」*5がある。聖徳殿・聖宝殿への拝観は有料。
その後、順次再建されたが、1580(天正8)年、秀吉の播磨平定に伴う知行配分と寺領の寄進により法隆寺領鵤荘は消滅し、同年に斑鳩寺は寺領として300石の寄進を受けたが、その翌年150石に減らされ、かつての寺勢を失った。江戸後期の「播磨名所巡覧図会」では周辺に水田が広がり、境内の伽藍は現在と同じ配置に描かれている。なお、再建後、比叡山を本山とする天台宗となった。
現在は仁王門をくぐると、正面に講堂*2、右手に三重塔*3、鐘楼と並び、左手には、聖徳殿が建つ。聖徳殿の奥殿には聖徳太子孝養像*4が安置されている。また、講堂左手裏には木造十二神将立像などが収められた宝物殿「聖宝殿」*5がある。聖徳殿・聖宝殿への拝観は有料。

みどころ
仁王門を抜けると、まず目に入るのは、右手に見える大きくバランスのとれた立ち姿が美しい三重塔。左手は、質素な感じを受ける聖徳殿が建つが、裏に回ってみると法隆寺の夢殿に似た意匠の奥殿が併設し、こちらはバランス的には若干奇妙だが、ユニークな構造が面白い。この中には、寺務所に申し出ると拝観できる聖徳太子孝養像が安置されている。この孝養像は、少しうつむき加減で、父親の用明天皇の病気回復を祈る姿だといわれると、そのようにもみえる。自刻とも伝わるというが、制作年代は不明とのことで余計に神秘的だ。
講堂は至って質素。本尊は丈六の釈迦如来、薬師如来、如意輪観音の三尊で、通常非公開でありなかなか拝観できないが、年1回太子春会式の時に開扉されるため、必見である。講堂裏手の宝物館「聖宝殿」では、同時期に作仏されたという慶派の十二神将像や日光月光菩薩像を拝観することができる。十二神将は決して大きな仏像ではないが、慶派らしい力感あふれる動きのある仏像群だ。一方、日光月光の2体の菩薩像は写実的で端正ながら、腰のひねりなどに軽快さを感じる立ち姿だ。
境内を回るだけなら少し物足りなさを感じるが、聖徳殿、聖宝殿を拝観すると、聖徳太子勝鬘経講讃図の模写図、その他資料展示も含め、往時の姿を思い描くことができる。
講堂は至って質素。本尊は丈六の釈迦如来、薬師如来、如意輪観音の三尊で、通常非公開でありなかなか拝観できないが、年1回太子春会式の時に開扉されるため、必見である。講堂裏手の宝物館「聖宝殿」では、同時期に作仏されたという慶派の十二神将像や日光月光菩薩像を拝観することができる。十二神将は決して大きな仏像ではないが、慶派らしい力感あふれる動きのある仏像群だ。一方、日光月光の2体の菩薩像は写実的で端正ながら、腰のひねりなどに軽快さを感じる立ち姿だ。
境内を回るだけなら少し物足りなさを感じるが、聖徳殿、聖宝殿を拝観すると、聖徳太子勝鬘経講讃図の模写図、その他資料展示も含め、往時の姿を思い描くことができる。

補足情報
*1 水田100町:この逸話は日本書紀にも「(推古)天皇請皇太子(聖徳太子)。令講勝鬘経。三日説竟(わたり)之。是歳。皇太子亦講法華経於岡本宮。天皇太喜之。播磨国水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺(法隆寺)。」(推古天皇が聖徳太子に勝鬘経を講じること請うた。勝鬘を三日にわたり説いた。この年にはまた岡本宮において法華経を聖徳太子は講じた。天皇はこれを大いに喜び、播磨国の水田百町を聖徳太子におくった。聖徳太子はこれをもって法隆寺に寄進した。)としている。同様の話が、賜った面積は異なるものの、『上宮聖徳法王帝説』に見られ、法隆寺の財産目録である「伽藍縁起并流記資財帳」にもその記載はみられる。
ただ、兵庫県史などによると、これらの資料は8世紀前半のため、7世紀前半という時期が仏教伝来の経緯や寺領が畿外で成立していたかどうか等の観点から、播磨における法隆寺領の成立は天武朝(7世紀後半)あたりではないかとしている。また、斑鳩寺についても、正確な創建時期はわからないものの、文献資料からは、斑鳩寺は1138(保延4)年の桑原貞助発願大般若経の奥書に初見され、発掘資料からは斑鳩寺出土の文字瓦(1138(文治5)年銘か)及び花菱門軒平瓦が見つかっていることからも、遅くとも12世紀後半には瓦葺きの塔堂が建てられていたことがわかる。
しかし、何れにせよ、周辺に古くから法隆寺の寺領が存在し、それと関係が深い同寺があり、太子信仰の盛り上がりのなかで平安後期には寺運が興隆していたことは間違いない。
*2 講堂:江戸中期の再建。本尊として中央に木造釈迦如来像、右に木造薬師如来像、左に木造如意輪観世音菩薩思惟半跏坐像の三尊(いずれも丈六仏)が安置されており、毎年2月22、23日に開扉される。これらの像は室町時代のものとされる。いずれも国指定の重要文化財に指定されている。
*3 三重塔:現在の斑鳩寺のなかで、最古の建物(国指定重要文化財)。1541(天文10)年の焼失の後、1565(永禄8)年に再建。
*4 聖徳太子孝養像:聖徳殿の奥殿に安置されており、聖徳太子16歳の尊像と伝えられている。髪の毛が植えられているため、「植髪の太子」ともいわれる。裸形着装像の形式で、着用する衣装は、近世後期以降、親王皇家からの寄進が通例になっている。なお、像の制作年代などは不明で、原則非公開の秘仏となっている。
*5 聖宝殿:収蔵されている木造十二神将立像は鎌倉期末期の慶派の作とされ、8体のみが残っている。また、木造日光・月光菩薩像2体もあり、こちらも鎌倉期の作という。これらの仏像は、斑鳩寺の復興時に楽々山(ささやま)円勝寺から移されたものである。いずれも国指定の重要文化財に指定されている。
ただ、兵庫県史などによると、これらの資料は8世紀前半のため、7世紀前半という時期が仏教伝来の経緯や寺領が畿外で成立していたかどうか等の観点から、播磨における法隆寺領の成立は天武朝(7世紀後半)あたりではないかとしている。また、斑鳩寺についても、正確な創建時期はわからないものの、文献資料からは、斑鳩寺は1138(保延4)年の桑原貞助発願大般若経の奥書に初見され、発掘資料からは斑鳩寺出土の文字瓦(1138(文治5)年銘か)及び花菱門軒平瓦が見つかっていることからも、遅くとも12世紀後半には瓦葺きの塔堂が建てられていたことがわかる。
しかし、何れにせよ、周辺に古くから法隆寺の寺領が存在し、それと関係が深い同寺があり、太子信仰の盛り上がりのなかで平安後期には寺運が興隆していたことは間違いない。
*2 講堂:江戸中期の再建。本尊として中央に木造釈迦如来像、右に木造薬師如来像、左に木造如意輪観世音菩薩思惟半跏坐像の三尊(いずれも丈六仏)が安置されており、毎年2月22、23日に開扉される。これらの像は室町時代のものとされる。いずれも国指定の重要文化財に指定されている。
*3 三重塔:現在の斑鳩寺のなかで、最古の建物(国指定重要文化財)。1541(天文10)年の焼失の後、1565(永禄8)年に再建。
*4 聖徳太子孝養像:聖徳殿の奥殿に安置されており、聖徳太子16歳の尊像と伝えられている。髪の毛が植えられているため、「植髪の太子」ともいわれる。裸形着装像の形式で、着用する衣装は、近世後期以降、親王皇家からの寄進が通例になっている。なお、像の制作年代などは不明で、原則非公開の秘仏となっている。
*5 聖宝殿:収蔵されている木造十二神将立像は鎌倉期末期の慶派の作とされ、8体のみが残っている。また、木造日光・月光菩薩像2体もあり、こちらも鎌倉期の作という。これらの仏像は、斑鳩寺の復興時に楽々山(ささやま)円勝寺から移されたものである。いずれも国指定の重要文化財に指定されている。
2025年03月現在
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