須磨寺
山陽電鉄須磨寺駅から須磨寺前商店街を通って北西へ約450mのところにある。正式には上野山福祥寺だが、古くから須磨寺と称されてきた。宗派は真言宗。創建は同寺の縁起では近くの和田岬の海中より出現した聖観世音菩薩像を安置するため、淳和天皇の勅命で会下山(兵庫区会下町)に北峰寺が建立されたのち、886(仁和2)年には光孝天皇の勅命によって現在の地に福祥寺を建立し、本尊として聖観世音菩薩像を遷したのが、当山の開基であると伝えている。ただ、同寺の他の寺伝では、開基後、寺勢が衰微した時期があったものの1169(嘉応元)年に源頼政が寺領を寄進し再興した際に、本尊の聖観世音像が安置されたとも伝えられている。
中世以降、たびたび地震、山崩れなど自然災害に堂宇の崩壊、再建が繰り返されたが、江戸後期の「摂州名所図会」に描かれている伽藍配置を現在までほぼ復元・再建、維持をしてきた。さらに1984(昭和59)年には紙本著色参詣曼陀羅図(桃山時代)に描かれていた三重塔も再建された。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災においても境内全域で甚大な被害を受け、その後、諸堂*1の改修、修理、再建を順次進め、復旧を果たしている。
また、同寺は「平家物語」や浄瑠璃「一谷嫩軍記」*2の舞台でもあり、うっそうたる樹木に抱かれた境内には平敦盛と熊谷直実の像、敦盛首塚、義経腰掛松など一ノ谷合戦を思い起こさせる記念像、事蹟、史跡などが点在する。このような歴史的背景から古来より文人墨客に愛され、境内には芭蕉、良寛、子規、蕪村、山本周五郎などの句碑、文学碑*3が立つ。
宝物館*4には「青葉の笛」など源平にまつわる品々が、本堂には室町期の作で光背の透彫に優れる十一面観音などが安置されている。
中世以降、たびたび地震、山崩れなど自然災害に堂宇の崩壊、再建が繰り返されたが、江戸後期の「摂州名所図会」に描かれている伽藍配置を現在までほぼ復元・再建、維持をしてきた。さらに1984(昭和59)年には紙本著色参詣曼陀羅図(桃山時代)に描かれていた三重塔も再建された。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災においても境内全域で甚大な被害を受け、その後、諸堂*1の改修、修理、再建を順次進め、復旧を果たしている。
また、同寺は「平家物語」や浄瑠璃「一谷嫩軍記」*2の舞台でもあり、うっそうたる樹木に抱かれた境内には平敦盛と熊谷直実の像、敦盛首塚、義経腰掛松など一ノ谷合戦を思い起こさせる記念像、事蹟、史跡などが点在する。このような歴史的背景から古来より文人墨客に愛され、境内には芭蕉、良寛、子規、蕪村、山本周五郎などの句碑、文学碑*3が立つ。
宝物館*4には「青葉の笛」など源平にまつわる品々が、本堂には室町期の作で光背の透彫に優れる十一面観音などが安置されている。

みどころ
「高い石段を登ると寺があった。そこには義経や敦盛の名の見える高札が立ててあった」と山本周五郎は小説「須磨寺付近」で書いているが、たしかに須磨寺駅から門前町の雰囲気を残しつつも近代的な商店街がある坂道を登っていくと、そこに緑濃い裏山に飲み込まれるように須磨寺がある。仁王門をくぐると、左手上に、平敦盛と熊谷直実が馬上で対峙する銅像が2基、白砂の上に立っているのが目に付く。それより一段高い所には、休憩所、宝物館があるので、まず立ち寄ってみると良い。そこからさらに石段を登ると、広い平坦な場所となり、正面に本堂、右手に護摩堂、左手に大師堂などが並び、左手奥には三重塔が建つ。本堂内の宮殿にある本尊聖観音坐像は平安後期の作とされるが秘仏で、時々特別開帳はあるものの、基本的には33年に1回の開帳となる。また、国の重要文化財の十一面観音立像も宮殿内にあり、通常は開帳されていない。また、宮殿の本尊の左右には不動明王、毘沙門天が安置されており、さらに宮殿の左右に阪神・淡路大震災後に造立された六観音が祀られている。本堂の宮殿は、本堂前からも垣間見ることはできる(特別回向や法要時は外陣から参拝できる)。
山本周五郎の「須磨寺付近」では「寺の前から裏山へかけて、八十八ヶ所の地蔵堂が造られてある、二人はそのほうへ進んだ、がもはや夕闇が拡がり出して、木樹の蔭には物寂しい影が動き始めた」としているが、現在は三重塔の脇に四国八十八ヶ所の本尊石が集められており、裏山の奥の院への参道の山道の脇に十三仏・七福神の祠が祀られている。そこには「須磨寺付近」に描写されているような雰囲気が醸し出されている。なお、裏山にある須磨寺の駐車場からは、須磨浦の眺望を楽しむことができる。
山本周五郎の「須磨寺付近」では「寺の前から裏山へかけて、八十八ヶ所の地蔵堂が造られてある、二人はそのほうへ進んだ、がもはや夕闇が拡がり出して、木樹の蔭には物寂しい影が動き始めた」としているが、現在は三重塔の脇に四国八十八ヶ所の本尊石が集められており、裏山の奥の院への参道の山道の脇に十三仏・七福神の祠が祀られている。そこには「須磨寺付近」に描写されているような雰囲気が醸し出されている。なお、裏山にある須磨寺の駐車場からは、須磨浦の眺望を楽しむことができる。

補足情報
*1 諸堂:本堂は1602(慶長7)年に豊臣秀頼が再建したもので、その後も解体修理、復元がなされている。なお、内陣の宮殿(くうでん)は1368(応安元)年の建造で、国の重要文化財になっている。護摩堂は1903(明治36)年再建。大師堂は大正時代には自由律の俳人尾崎放哉が堂守りとして住み込んでいたという。2007(平成19)年修復。正覚院、櫻寿院、蓮生院などの塔頭寺院も仁王門付近にある。
*2 「平家物語」や浄瑠璃「一谷嫩軍記」:「平家物語」では須磨寺近くの一ノ谷の浜で、熊谷直実が17歳の平敦盛を打ち取る場面があり、その際に敦盛が身にしていたのが「小枝の笛」(青葉の笛)だったとしている。この戦いで世の無常を感じた直実はその後出家したとしている。浄瑠璃「一谷嫩軍記」では、このストーリーにさらに、敦盛は後白河法皇の御落胤だとし、一時平家に仕えた直実にとっては、恩人であった「藤の局」の息子でもあったことから、敦盛を逃し、その身代わりとして自分の息子小次郎の首を義経が行う首実検に差出すという悲話を付け加えている。この浄瑠璃の大詰めで、義経は暗に敦盛を逃したかったので小次郎が身代わりになっていることを知りつつその首を持ち「此須磨寺に取納め末世末代敦盛と其名は朽ちぬ黄金ざね(札)」と義経に語らせている。
*3 句碑・文学碑:芭蕉「須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇」、蕪村「笛の音に 波もよりくる 須磨の秋」、良寛「すまでらの むかしを 問えば 山桜」「よしやねむ すまのうらわの なみまくら」、山本周五郎「須磨は秋であった」(「須磨寺付近」)
*4 宝物館:「青葉の笛」など源平のゆかりの品々を展示。入館無料。
*2 「平家物語」や浄瑠璃「一谷嫩軍記」:「平家物語」では須磨寺近くの一ノ谷の浜で、熊谷直実が17歳の平敦盛を打ち取る場面があり、その際に敦盛が身にしていたのが「小枝の笛」(青葉の笛)だったとしている。この戦いで世の無常を感じた直実はその後出家したとしている。浄瑠璃「一谷嫩軍記」では、このストーリーにさらに、敦盛は後白河法皇の御落胤だとし、一時平家に仕えた直実にとっては、恩人であった「藤の局」の息子でもあったことから、敦盛を逃し、その身代わりとして自分の息子小次郎の首を義経が行う首実検に差出すという悲話を付け加えている。この浄瑠璃の大詰めで、義経は暗に敦盛を逃したかったので小次郎が身代わりになっていることを知りつつその首を持ち「此須磨寺に取納め末世末代敦盛と其名は朽ちぬ黄金ざね(札)」と義経に語らせている。
*3 句碑・文学碑:芭蕉「須磨寺や ふかぬ笛きく 木下闇」、蕪村「笛の音に 波もよりくる 須磨の秋」、良寛「すまでらの むかしを 問えば 山桜」「よしやねむ すまのうらわの なみまくら」、山本周五郎「須磨は秋であった」(「須磨寺付近」)
*4 宝物館:「青葉の笛」など源平のゆかりの品々を展示。入館無料。
2025年03月現在
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