六甲山ろっこうさん

兵庫県神戸市の北西、標高931mの六甲山を最高峰として西に摩耶山、再度山を経て、東西方向に約30kmに伸びる連山である。神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市に属しており、これらの市街地から急傾斜でそそりたつ山並みは阪神地域のランドマークとなっている。北側の山麓は有馬温泉*1に繋がっており裏六甲として親しまれている。
 六甲山の自然は海抜から標高900mまでの高度差により生まれた多様な植生であり、春のアセビ・コブシ・ツツジから初夏のアジサイ、秋の紅葉まで四季の変化を楽しむことができる。特に高い標高により生まれるモミジの紅葉は有名である。また、花崗岩の地質により浸透する水が名水として布引渓流となり、西宮市では宮水として清酒を生んでいる。このような自然環境により、1956(昭和31)年に瀬戸内海国立公園の六甲地域に指定された。
 交通アクセスは、阪急六甲駅から市バスで15分ほどの所にある六甲ケーブル下駅からケーブルカーで約10分。少し西寄りの摩耶エリアに登る場合は、各鉄道社の三宮駅から市バスで30分ほどの摩耶ケーブル下駅からケーブルカーとロープウェーを乗り継いで約30分である。また裏六甲の有馬温泉、JR新神戸駅からもロープウェイが架かっている。また道路交通は県道「明石神戸宝塚線」と、それに神戸側・有馬温泉側から接続する表六甲ドライブウェイ・裏六甲ドライブウェイがある。
 六甲山の観光は、明治時代に神戸の居留外国人*2により避暑地としてゴルフ場や別荘が開発され、1920(大正9)年代から阪急・阪神の鉄道資本によりロープウェーや山岳道路、ホテル等の観光開発*3が進むとハイキングやスキーなどの利用が始まり、戦後はホテルや会社の保養所、遊園地や高山植物園、高原牧場などの整備により野外レクリエーションの場となった。さらに、1980年代からは山塊を南北に貫くトンネルにより有馬温泉と神戸市街地が地下鉄・自動車道トンネルで結ばれ、有馬温泉を含む周遊観光が可能となり、現在では阪神エリアからの日帰りレジャー、野外レクリエーションの目的地となっている。
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みどころ

山頂一帯には展望台、高山植物園、牧場、森林アドベンチャー園地などのレクリエーション施設や、ホテル・保養所・キャンプ村などが散在し、四季を通じて自然に親しめ、日帰りで気軽に訪問できる。また、表六甲の山麓では生田川渓谷にある布引の滝と布引五本松堰堤、裏六甲の山麓では紅葉が美しい紅葉谷が見どころである。登山・ハイキングコースは、山麓から3時間程度の登山からロープウェーや路線バスを利用しての1時間コースなど、子供連れから高齢者まで体力に応じて30以上のコースがある。また、山頂一帯に数箇所ある展望台からは神戸市街地から大阪湾、淡路島、瀬戸内海までの雄大な展望が楽しめ、特に夜景は「1000万ドルの夜景」として有名である。
 六甲山の魅力をより高めているのは裏六甲の有馬温泉まで含めた周遊観光である。神戸市街地からケーブルカーやロープウェーで登り、ハイキングやバスで高山植物園や牧場、展望台で楽しみ、有馬温泉にロープウェーで降りて地下鉄で神戸市街地に1日で戻ることができる。このような周遊観光コースとしては、表六甲側にある摩耶山、布引ハーブ園や山麓の布引の滝探訪も挙げられる。
 また、軽井沢と同様に居留外国人の避暑地として開発された経緯から、クラシックなリゾートとしての雰囲気も残っており、神戸ゴルフ倶楽部の佇まいやヴォーリズ六甲山荘*4などの昭和初期の建物を巡る観光も六甲山の魅力となっている。
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補足情報

*1 有馬温泉:六甲山の北側、紅葉谷の山麓にある温泉地。道後温泉、南紀白浜温泉と並んで日本書紀、古風土記にも記され、奈良・平安時代から貴人の湯治滞在の記録がある。また近世では豊臣秀吉が何回も訪問している。
*2 神戸の居留外国人:A.H.グルーム(1846~1918年)。幕末から明治にかけて日本で活躍した英国の貿易商で、登山が好きであったことから六甲山の観光開発に尽力した。1903(明治36)年に日本初となる神戸ゴルフ倶楽部を発足させた。
*3 観光開発:観光開発の主な動きは、1925(大正14)年:摩耶ケーブル、1928(昭和3)年:裏六甲ドライブウェイ、1929(昭和4)年:表六甲ドライブウェイ、六甲山ホテル(宝塚ホテルの分館。現・六甲山サイレンスリゾートの旧館)、1932(昭和7)年:六甲ケーブル、1934(昭和9)年:六甲オリエンタルホテル、1991(平成3)年新神戸駅からのロープウェイと布引ハーブ園
*4 ヴォーリズ六甲山荘:1934(昭和9)年にヴォーリズ建築事務所の設計により建てられた別荘で、国の有形文化財に登録されている。W.M.ヴォーリス(1880~1964年)は、1905(明治38)年に来日し、キリスト教の伝道とキリスト教主義に基づく事業を展開。数多くの建築物を設計し、京阪神では関西学院大学や神戸女学院に多くの建物が残されている。