浄土寺
神戸電鉄粟生線小野駅から北東へ約4km、のどかに広がる田園風景の中にある。源平合戦の戦火による東大寺焼失をうけ、再建のための勧進職となった俊乗房重源*1は、建久年間(1190~1199年)にこの地方に従来からあった東大寺播磨別所(荘園)に加え、大半が荒野だった大部荘(おおべのしょう)の開発に力を注いだ。さらに1192(建久3)年の「重源下文案」によると、重源は周辺の荒廃していた数カ寺の仏堂・仏像を集め浄土堂(阿弥陀堂)*2を建立したうえで浄土寺(当初は南無阿弥陀仏寺)を大部荘に創建し、その後数年をかけ、本堂(薬師堂)*3などの伽藍を整備したとしている。
伽藍配置としては重源の阿弥陀・舎利信仰を反映して、西に来世(西方極楽浄土)を表す浄土堂(阿弥陀堂)と、東に現世(東方浄瑠璃世界)表す本堂(薬師堂)を造営し、境内中央の参道を「三途の川」と見立て配している。さらに1235(嘉禎元)年には、同寺は本地垂迹説に従い、境内に鎮守として境内中央の北端に八幡神社を勧請している。現在も広い境内に、往時とほぼ同じ伽藍配置で浄土堂(阿弥陀堂)、本堂(薬師堂)をはじめ、八幡神社拝殿・本殿、不動堂、開山堂、鐘楼堂などの諸堂が建ち並ぶ。なかでも、浄土堂(阿弥陀堂)には仏師快慶*4による高さ530cmの木造阿弥陀如来立像と高さ370cmの観音、勢至菩薩の両脇侍*5(いずれも国宝)が創建当時から安置されている。拝観有料。
伽藍配置としては重源の阿弥陀・舎利信仰を反映して、西に来世(西方極楽浄土)を表す浄土堂(阿弥陀堂)と、東に現世(東方浄瑠璃世界)表す本堂(薬師堂)を造営し、境内中央の参道を「三途の川」と見立て配している。さらに1235(嘉禎元)年には、同寺は本地垂迹説に従い、境内に鎮守として境内中央の北端に八幡神社を勧請している。現在も広い境内に、往時とほぼ同じ伽藍配置で浄土堂(阿弥陀堂)、本堂(薬師堂)をはじめ、八幡神社拝殿・本殿、不動堂、開山堂、鐘楼堂などの諸堂が建ち並ぶ。なかでも、浄土堂(阿弥陀堂)には仏師快慶*4による高さ530cmの木造阿弥陀如来立像と高さ370cmの観音、勢至菩薩の両脇侍*5(いずれも国宝)が創建当時から安置されている。拝観有料。

みどころ
ここでの最大のみどころは、浄土堂(阿弥陀堂)とその中に安置されている木造阿弥陀如来立像及び両脇侍であろう。境内に入るとまず目に飛び込むのは浄土堂(阿弥陀堂)で、直線的に延びる瓦葺きの濃い灰色の大屋根とその軒下から主張する白壁、柱や板扉の朱が際立つ。全体としてはそっけないほどシンプルだが無駄のない力強さを感じさせる建物だ。中に入ると柱が少ない大空間で、天井が張られていないので、余計に広く大きく見える。屋根裏の木組みを見せ、質実剛健で大陸風の豪快さをもたらしている。その中央に、どんと立ち上がっているのが、阿弥陀如来立像だ。光背も大きく、のけぞって見上げてしまうほどだ。足もとをみれば、紫雲に乗っており、その彫りに動きがあって、まさに来迎の情景と分かる。決して装飾的な仏像ではないが、気品のなかに力強さが迫ってくる。午後の日が傾き、西側の蔀戸の格子から洩れてくる光に包まれると、神秘的で厳かさがより一層増すことになる。
かつて、浄土寺では阿弥陀如来が二十五菩薩をひきいて、西方浄土から現世へ迎えに来る姿を、菩薩面と装束を身につけ演じる来迎会が行われていたというが、江戸時代には「小野町ノ領主構桟敷警固セラレ諸役人多出四方ニ奔走シテ非常ヲ戒ム 遠近ノ参詣夥シ」(江戸中期の地誌「播磨鑑」)と多くの信者を集めていたと伝えられている。いまはその華やかさは感じないが、この阿弥陀如来立像を仰ぎ見ると、その華やかな来迎会の様子を想像するのに難くない。
かつて、浄土寺では阿弥陀如来が二十五菩薩をひきいて、西方浄土から現世へ迎えに来る姿を、菩薩面と装束を身につけ演じる来迎会が行われていたというが、江戸時代には「小野町ノ領主構桟敷警固セラレ諸役人多出四方ニ奔走シテ非常ヲ戒ム 遠近ノ参詣夥シ」(江戸中期の地誌「播磨鑑」)と多くの信者を集めていたと伝えられている。いまはその華やかさは感じないが、この阿弥陀如来立像を仰ぎ見ると、その華やかな来迎会の様子を想像するのに難くない。

補足情報
*1 重源:1121(保安2)~1206(建永元)年。東大寺再建の勧進上人で俊乗坊と号す。初め醍醐寺に入り出家し、宋に渡ること3度。大仏の鋳造を始め、大仏殿の再建に尽力した。東大寺再建のための経済基盤の拡充のため、別所(荘園)などの拠点を播磨、備中、周防、伊賀などで開発した。1206(建永元)年に東塔造営中に遷化。
*2 浄土堂(阿弥陀堂):三間三面宝形造本単層、本瓦葺。軒は反りがなく、内部は天井は張られていないため木組み構造を観察でき、内室は大空間となっている。大仏(天竺)様式の代表的な建築。阿弥陀如来三尊は、内室の中央に置かれ、一回りできるようになっている。国宝。
*3 本堂(薬師堂):桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、本瓦葺。室町時代中期に焼失し、現在のものは1517(永正14)年再建。大仏(天竺)様式を基本とするが、再建時の時代性の影響もあり、唐様、和様などの手法も入り混じっている。国指定重要文化財。
*4 快慶:生没年不詳。運慶の父、康慶の弟子とされる。重源の阿弥陀信仰に大きな影響をうけ、東大寺の再建にも尽力した。優美で親しみやすい仏像が多い。
*5 高さ530cmの木造阿弥陀如来立像と高さ370cmの観音、勢至菩薩の両脇侍:鎌倉初期の仏像彫刻の中で最もすぐれたものの一つといわれている。この三尊は紫雲を模した台座に乗り、夕方になると蔀戸から洩れる西日を背に受け、ちょうど、西方から光の中を来迎する姿となるような仕掛けとなっている。
*2 浄土堂(阿弥陀堂):三間三面宝形造本単層、本瓦葺。軒は反りがなく、内部は天井は張られていないため木組み構造を観察でき、内室は大空間となっている。大仏(天竺)様式の代表的な建築。阿弥陀如来三尊は、内室の中央に置かれ、一回りできるようになっている。国宝。
*3 本堂(薬師堂):桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、本瓦葺。室町時代中期に焼失し、現在のものは1517(永正14)年再建。大仏(天竺)様式を基本とするが、再建時の時代性の影響もあり、唐様、和様などの手法も入り混じっている。国指定重要文化財。
*4 快慶:生没年不詳。運慶の父、康慶の弟子とされる。重源の阿弥陀信仰に大きな影響をうけ、東大寺の再建にも尽力した。優美で親しみやすい仏像が多い。
*5 高さ530cmの木造阿弥陀如来立像と高さ370cmの観音、勢至菩薩の両脇侍:鎌倉初期の仏像彫刻の中で最もすぐれたものの一つといわれている。この三尊は紫雲を模した台座に乗り、夕方になると蔀戸から洩れる西日を背に受け、ちょうど、西方から光の中を来迎する姿となるような仕掛けとなっている。
関連リンク | 兵庫県 おの観光ナビ(小野市観光協会)(WEBサイト) |
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参考文献 |
兵庫県 おの観光ナビ(小野市観光協会)(WEBサイト) 「小野市文化財保存活用地域計画 『第4章 小野市の歴史文化の特徴』」 「浄土堂、薬師堂、阿弥陀三尊」文化遺産オンライン(文化庁)(WEBサイト) 「国宝 浄土寺」兵庫県 おの観光ナビ(小野市観光協会)(WEBサイト) 「朝日日本歴史人物事典 重源」朝日新聞出版 |
2025年03月現在
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