岸和田城きしわだじょう

南海電車岸和田駅から南西に900mほど。岸和田城は別名千亀利(ちきり)城とも呼ばれる。堀、石垣などの一部を除き昭和期に再建されたものが多いものの、城門右手に隅櫓(すみやぐら)、八陣の庭*1をはさんで鉄筋コンクリート造りの3層の天守閣*2が建ち、堀の水面に壮麗な姿を映している。
 岸和田城が和泉国統治の拠点として城郭の形に整ったのは、1597(慶長2)年に小出秀政が天守を築いてからである。徳川政権下では岡部宣勝が入部以来、岡部氏*3が13代にわたり岸和田藩(6万石、のちに5万3千石)を支配したが、天守は1827(文政10)年落雷で焼失した。1954(昭和29)年に天守閣が、1969(昭和44)年に隅櫓・多聞櫓及び城壁が復興再建され、天守閣は展示室*4と、遠く淡路島まで望める展望台となっている。
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みどころ

1796(寛政8)年刊行の「和泉名所図会」では「今城下の町筋は南海道の駅路也。当郡都会のちにして交易の商人多し 町名は北町魚屋町堺町本町南町といふ 其外裏町ありて繁昌の市中也」として、江戸時代には城下町として、また、街道筋として賑わっていたことがわかる。現在は岸和田駅から城へ向かう道筋は、商店街や住宅地になっており、狭い街路の道筋や家並み、その町名に城下町の面影を見出すことができる。城は公園化され、地元の人々が散策をしたり、憩う姿がよくみられる。城郭としてのビューポイントとしては、だんじり祭りのだんじりが集結する岸城神社や府立岸和田高校がある南東の堀端から見るのをお勧めする。美しい石垣と風格を感じさせる天守閣、そして静水を湛えた堀に映すその姿は堂々たるものがある。
 天守閣内部の岸和田藩、岡部氏関連の資料展示も岸和田の歴史を理解する助けになる。
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補足情報

*1 八陣の庭:中国三国時代の戦略家諸葛孔明の八陣の陣形にちなみ、紀元前3世紀ごろの陣立てを緑色結晶片岩と白砂を用いて造形的に表現している。1953(昭和28)年の重森三玲氏の作庭。国指定の名勝。
*2 天守閣:江戸後期に焼失した天守は5層だったとされる。入城有料。
*3 岡部氏:もと駿河国岡部郷(現・静岡県藤枝市岡部町)を本拠地とする地方武士で、戦国時代には今川氏、武田氏に仕え、その後、初代岸和田藩主となる宣勝の祖父正綱の時に徳川家康の家臣となった。このため宣勝は、譜代大名として美濃大垣、播磨龍野、摂津高槻を経て大阪の要衝の地である岸和田に入部した。
*4 展示室:岸和田藩主岡部氏関係資料や、市内各地の考古資料を常設展示するほか、岸和田市域を中心とした郷土の歴史・文化をテーマとした企画展を随時開催している。入館は天守閣入城料に含む。