久米田寺
JR阪和線久米田駅から東南へ約1.2kmのところにある。行基*1が畿内に建造した49院の一つにあげられ、境内の南側には満水面積約456,000m2、周囲約2,650mの久米田池*2が広がる。この池は行基が725(神亀2)年から738(天平10)年まで14年の歳月をかけて築いた農業用水池として知られる。同寺の草創は734(天平6)年*3、聖武天皇の勅願により行基がこの池を管理*4するために建立した隆池院がはじまりとされる。寺の背後には久米田古墳群*5があり、久米田池の池底からは須恵器の窯跡が発見されている。
平安期には「学問の寺」として栄えたが、平安期末からは衰退したが、鎌倉後期に和泉に所領があった安東氏や足利氏などによって再興が図られた。しかし、戦国時代に入ると再び戦火により堂宇が焼失・荒廃し、江戸時代に入り再建された。現在も池側の楼門*6から入ると金堂*7、開山堂*8、観音堂*9、大師堂*10など多くの堂宇が今も建ち並んでいる。寺宝の『星曼荼羅図(ほしまんだらず)』(非公開・国の重要文化財)は除災受福を祈願する北斗修法の本尊で、古様描法に切金、彩色を施し、温和な画風でまとめた平安絵画として名高い。
平安期には「学問の寺」として栄えたが、平安期末からは衰退したが、鎌倉後期に和泉に所領があった安東氏や足利氏などによって再興が図られた。しかし、戦国時代に入ると再び戦火により堂宇が焼失・荒廃し、江戸時代に入り再建された。現在も池側の楼門*6から入ると金堂*7、開山堂*8、観音堂*9、大師堂*10など多くの堂宇が今も建ち並んでいる。寺宝の『星曼荼羅図(ほしまんだらず)』(非公開・国の重要文化財)は除災受福を祈願する北斗修法の本尊で、古様描法に切金、彩色を施し、温和な画風でまとめた平安絵画として名高い。

みどころ
JR阪和線久米田駅から商店街を通り、少し小高い住宅街を抜けると、そこに広大といってもよい久米田池が広がる。その池畔に久米田寺の楼門を前に立ってこの池を眺めると、土木重機もない8世紀においては、途方もない工事であっただろうと実感できる。行基を中心とした宗教集団は、おそらく当時の社会基盤整備の技術集団でもあっただろうし、それがいかに庶民に恩恵を与えていたか、そして、崇敬を受けていたかもこの寺と池をみれば、想像に難くない。
現在の久米田寺の境内には、少し窮屈そうに数多くの堂宇が並んでいる。ただ、その分親しみやすさも感じることができ、散歩がてらお参りする地元の住民や信者の出入りが多いようにも見受けられる。久米田池はサクラの名所でもあるので、参拝がてら訪ねるのも良いだろう。
現在の久米田寺の境内には、少し窮屈そうに数多くの堂宇が並んでいる。ただ、その分親しみやすさも感じることができ、散歩がてらお参りする地元の住民や信者の出入りが多いようにも見受けられる。久米田池はサクラの名所でもあるので、参拝がてら訪ねるのも良いだろう。

補足情報
*1 行基:668~749年。百済系渡来人の子に生まれる。15歳で出家、大和薬師寺に入山し法相宗を学ぶ。奈良時代初期、貴族間抗争の頻繁な世相不安のなかで、彼は諸国を歴遊しながら池溝、道橋を設けるなどの社会活動を行った。この行動は717(霊亀3)年大宝の僧尼令違反として禁じられたが、のちに許されて大菩薩の号を賜った。畿内に建立した道場は49院に及ぶという。
*2 久米田池:「隆池院縁起」によると「(堅牢)地神現黄牛而曳塊。日月星辰。示白人而固堤。所以大聖老人。運鷲峯海會之士築之。善哉童子。荷青冷山崛之壤。加之。況國中神祇乎。何況州内黎元乎(大地を司る地神が黄牛となって現れて土の塊を引き、日月星辰【太陽や月や星】が普通の人となって堤を固め、大聖老人【文殊菩薩の従者】が黒鷲嶺の土を運んでこれを築き、善哉【財】童子【文殊・普賢菩薩に願い教えを請う求道者】が青冷山の土壌を担ぐ。これに加えて、国中の神々や州内の人民が応えた)と国中の神仏と住民たちが協力して造成したとしている。
*3 草創は734(天平6)年:同年としているのは、12世紀成立の「行基年譜」による。「隆起院縁起」では738(天平10)年の秋に久米田池が竣工したとする記事のあとに「五間四面堂一宇。奉安置釋迦如来。普賢。文殊像各一體。塔婆一基。鐘樓經藏僧坊二宇。餘房二十宇。常住僧之坊」と記しており、伽藍が構え整えられたこととする記事がみられる。
*4 管理:中世には、池の管理・運営は久米田寺から池周辺14ヶ村の「久米田池郷」に移った。現在も、地域の「久米田池土地改良区」によって管理・運営が行われ、良好な環境が維持保全されている。
*5 久米田古墳群:古墳時代中期のものと考えられ、「橘諸兄塚」と呼ばれる面積3,150m2の前方後円墳を筆頭に志阿弥法師塚など5つの円墳がある。これだけの狭い範囲に6つの古墳が集中しているのは珍しいという。
*6 楼門:久米田池を臨んで建つ。1706(宝永3)年の再建。
*7 金堂:楼門を入って正面に建つ。本尊は釈迦如来像、脇待は普賢・文殊菩薩立像。五間四面、単層、瓦葺き。1770(明和7)年の再建。
*8 開山堂:行基菩薩像が安置。1822(文政5)年造立といわれる。桁行三間。
*9 観音堂:1803(享和3)年の再建。三間四面。伝・行基自刻の千手観世音を安置。
*10 大師堂:1824(文政7)年の建立。弘法大師像を安置。三間四面。
*2 久米田池:「隆池院縁起」によると「(堅牢)地神現黄牛而曳塊。日月星辰。示白人而固堤。所以大聖老人。運鷲峯海會之士築之。善哉童子。荷青冷山崛之壤。加之。況國中神祇乎。何況州内黎元乎(大地を司る地神が黄牛となって現れて土の塊を引き、日月星辰【太陽や月や星】が普通の人となって堤を固め、大聖老人【文殊菩薩の従者】が黒鷲嶺の土を運んでこれを築き、善哉【財】童子【文殊・普賢菩薩に願い教えを請う求道者】が青冷山の土壌を担ぐ。これに加えて、国中の神々や州内の人民が応えた)と国中の神仏と住民たちが協力して造成したとしている。
*3 草創は734(天平6)年:同年としているのは、12世紀成立の「行基年譜」による。「隆起院縁起」では738(天平10)年の秋に久米田池が竣工したとする記事のあとに「五間四面堂一宇。奉安置釋迦如来。普賢。文殊像各一體。塔婆一基。鐘樓經藏僧坊二宇。餘房二十宇。常住僧之坊」と記しており、伽藍が構え整えられたこととする記事がみられる。
*4 管理:中世には、池の管理・運営は久米田寺から池周辺14ヶ村の「久米田池郷」に移った。現在も、地域の「久米田池土地改良区」によって管理・運営が行われ、良好な環境が維持保全されている。
*5 久米田古墳群:古墳時代中期のものと考えられ、「橘諸兄塚」と呼ばれる面積3,150m2の前方後円墳を筆頭に志阿弥法師塚など5つの円墳がある。これだけの狭い範囲に6つの古墳が集中しているのは珍しいという。
*6 楼門:久米田池を臨んで建つ。1706(宝永3)年の再建。
*7 金堂:楼門を入って正面に建つ。本尊は釈迦如来像、脇待は普賢・文殊菩薩立像。五間四面、単層、瓦葺き。1770(明和7)年の再建。
*8 開山堂:行基菩薩像が安置。1822(文政5)年造立といわれる。桁行三間。
*9 観音堂:1803(享和3)年の再建。三間四面。伝・行基自刻の千手観世音を安置。
*10 大師堂:1824(文政7)年の建立。弘法大師像を安置。三間四面。
関連リンク | きしわだSIDE 岸和田市観光課(WEBサイト) |
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参考文献 |
きしわだSIDE 岸和田市観光課(WEBサイト) 「久米田池(くめだいけ)説明板」岸和田市生涯学習部郷土文化課(WEBサイト) 「日本歴史地名大系 久米田池」平凡社 「大日本仏教全書 第85巻 (寺誌部 3) 隆池院縁起」 159/192 国立国会図書館デジタルコレクション |
2025年03月現在
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