南宗寺
阪堺電軌鉄道阪堺線御陵前駅から東へ約400mで南宗寺の北門に辿り着く。焼け瓦の埋めこまれた土塀を巡らす広大な境内に山(甘露)門*1、唐門*2、仏殿*3、鐘楼、浴室などが点在し、天慶院をはじめとする多くの塔頭が立っている。
草創は1526(大永6)年に京都の大徳寺(臨済宗)の住職古嶽宗亘が現在地の北あたり(現・寺地町3丁付近)にあった小坊を南宗庵と改称したのが始まりといわれ、それを継いだ同じ大徳寺の住職だった大林宗套(だいりんそうとう)が庵主となった。1557(弘治3)年に当地に勢力を有し、大林宗套に帰依していた三好長慶が父親の菩提を弔うために、現在地に移転し堂宇を整え、宗套を開山として創建した。この折に寺号を南宗寺とした。しかし、創建時の堂宇は、大阪の夏の陣などの戦乱に巻き込まれ焼失した。江戸初期に現在も遺る山(甘露)門や仏殿の再建を果たした。
戦国時代から安土・桃山時代にかけて武野紹鴎(じょうおう)*4、やその弟子の千利休*5らが同寺で参禅し、茶道大成の基盤精神を養った寺という。
拝観については、北門から入り、山(甘露)門を経て、東に回り仏殿・鐘楼前を通り受付に向かい、ここで拝観料を納め、庭園*6や仏殿などを巡ることになる。客殿・方丈(本堂)、実相庵(茶室)などは外観のみで拝観はできない。なお、駐車場は東門側にある。
草創は1526(大永6)年に京都の大徳寺(臨済宗)の住職古嶽宗亘が現在地の北あたり(現・寺地町3丁付近)にあった小坊を南宗庵と改称したのが始まりといわれ、それを継いだ同じ大徳寺の住職だった大林宗套(だいりんそうとう)が庵主となった。1557(弘治3)年に当地に勢力を有し、大林宗套に帰依していた三好長慶が父親の菩提を弔うために、現在地に移転し堂宇を整え、宗套を開山として創建した。この折に寺号を南宗寺とした。しかし、創建時の堂宇は、大阪の夏の陣などの戦乱に巻き込まれ焼失した。江戸初期に現在も遺る山(甘露)門や仏殿の再建を果たした。
戦国時代から安土・桃山時代にかけて武野紹鴎(じょうおう)*4、やその弟子の千利休*5らが同寺で参禅し、茶道大成の基盤精神を養った寺という。
拝観については、北門から入り、山(甘露)門を経て、東に回り仏殿・鐘楼前を通り受付に向かい、ここで拝観料を納め、庭園*6や仏殿などを巡ることになる。客殿・方丈(本堂)、実相庵(茶室)などは外観のみで拝観はできない。なお、駐車場は東門側にある。

みどころ
受付で拝観料を納めると、できれば、ボランティアのガイドをお願いして、庭園内や史跡を巡るのがおすすめ。千家一門(表・裏・武者小路)、紹鴎らの墓や石塔や徳川秀忠、家光が登楼したと伝えられる坐雲亭などがあるが、同寺での見どころは、方丈の南側の庭園と、茶室実相庵の前庭に置かれている茶聖たちが遺愛した燈籠や手水鉢、それに仏殿の天井画の「八方睨龍(はっぽうにらみりゅう)」だろう。
方丈の南側の庭園は前面に広く白砂を敷き、小高くなっている地形を利用して枯滝の石組み、小石で表現した水の流れで美しく構成されている。仏殿はさほど大きなものではないが、天井は高く、そのうえから八方睨みをする龍は、迫力はもちろんあるが、よく見ると愛嬌のある顔をしているようにも見えなかなか興味深い。
なお、伝承として家康の墓石*7があるとされるが、こちらは歴史のこぼれ話としてガイドの説明を聞くのも面白いかもしれない。
方丈の南側の庭園は前面に広く白砂を敷き、小高くなっている地形を利用して枯滝の石組み、小石で表現した水の流れで美しく構成されている。仏殿はさほど大きなものではないが、天井は高く、そのうえから八方睨みをする龍は、迫力はもちろんあるが、よく見ると愛嬌のある顔をしているようにも見えなかなか興味深い。
なお、伝承として家康の墓石*7があるとされるが、こちらは歴史のこぼれ話としてガイドの説明を聞くのも面白いかもしれない。

補足情報
*1 山(甘露)門:1647(正保4)年造立。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。禅宗様と和様の折衷様式。
*2 唐門:江戸前期の建造。桁行一間、梁間一間、向唐門、本瓦葺。簡素な造りだが、屋根瓦には「三つ葉葵」の紋が付されているが。これはかつて境内にあった東照宮へ通じていたためである。
*3 仏殿:1653(承応2)年建立。 桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺。大阪府内では禅宗様式の建築技法を使った唯一の仏殿。内部の天井には、「八方睨龍」が描かれており、拝観可能。
*4 武野紹鴎(じょうおう):1502(文亀2)~1555(弘治元)年。大和国吉野に生まれる。同族であった三好氏の勢力下にあった堺で武具商・皮革商で財をなし、自治都市であった堺の町人として指導者の一人として活躍した。村田珠光の「わび茶」を憧憬し、喫茶文化の国風化に尽くした。実相庵前の庭園には紹鴎遺愛の「六地蔵石燈籠」がある。
*5 千利休:1522(大永2)~1591(天正19)年。桃山時代の茶人として知られる。号は宗易。利休という号は天皇より下賜されたといわれる。10代で武野紹鴎に茶の湯を学び、早くから茶道で才能をあらわした。織田信長の茶頭として活躍、秀吉の懐刀として政治的にも力を有するようになった。しかし、政治的な問題で齟齬が生じ、秀吉から切腹を命じられた。利休は村田珠光が提唱した「わび茶」を大成させ、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などあらゆる面に独創性を発揮し、現在の茶の湯の基本を作った。その後、千家の再興が許され、現在まで千利休の茶の湯が継承されている。実相庵の前の庭園には利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」と「椿の井戸」がある。
*6 庭園:利休の弟子古田織部により、1619(元和5)年ごろに作庭されたと伝わる。桃山時代の特徴を残す枯山水庭園で、自然石の石組で渓流を形づくり、その流れの盛衰を白い栗石で表現し雄壮な美しさを見せている。
*7 家康の墓石:1922(大正11)年発行の大阪府全志巻之5には、当寺の旧記に「元和元(1615)年大阪の役に徳川家康は摂・河両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちて之を襲ふ、謂ゆる平野の焼打是れなり。家康僅に免れて葬輿に乗じ、遁れて和泉の半田寺山に至る。偶後藤基次の紀州より帰り来れるに会す。基次之を認め怪みて其の輿を刺す…中略…家康は創を負ひて終に起たず、侍臣密に言遺骸を携へて当寺に来たり、第二世本光禅師に請ひて之を照堂の下に斂む、時に元和元年四月二十七日なり」とあると紹介している。
*2 唐門:江戸前期の建造。桁行一間、梁間一間、向唐門、本瓦葺。簡素な造りだが、屋根瓦には「三つ葉葵」の紋が付されているが。これはかつて境内にあった東照宮へ通じていたためである。
*3 仏殿:1653(承応2)年建立。 桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺。大阪府内では禅宗様式の建築技法を使った唯一の仏殿。内部の天井には、「八方睨龍」が描かれており、拝観可能。
*4 武野紹鴎(じょうおう):1502(文亀2)~1555(弘治元)年。大和国吉野に生まれる。同族であった三好氏の勢力下にあった堺で武具商・皮革商で財をなし、自治都市であった堺の町人として指導者の一人として活躍した。村田珠光の「わび茶」を憧憬し、喫茶文化の国風化に尽くした。実相庵前の庭園には紹鴎遺愛の「六地蔵石燈籠」がある。
*5 千利休:1522(大永2)~1591(天正19)年。桃山時代の茶人として知られる。号は宗易。利休という号は天皇より下賜されたといわれる。10代で武野紹鴎に茶の湯を学び、早くから茶道で才能をあらわした。織田信長の茶頭として活躍、秀吉の懐刀として政治的にも力を有するようになった。しかし、政治的な問題で齟齬が生じ、秀吉から切腹を命じられた。利休は村田珠光が提唱した「わび茶」を大成させ、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などあらゆる面に独創性を発揮し、現在の茶の湯の基本を作った。その後、千家の再興が許され、現在まで千利休の茶の湯が継承されている。実相庵の前の庭園には利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」と「椿の井戸」がある。
*6 庭園:利休の弟子古田織部により、1619(元和5)年ごろに作庭されたと伝わる。桃山時代の特徴を残す枯山水庭園で、自然石の石組で渓流を形づくり、その流れの盛衰を白い栗石で表現し雄壮な美しさを見せている。
*7 家康の墓石:1922(大正11)年発行の大阪府全志巻之5には、当寺の旧記に「元和元(1615)年大阪の役に徳川家康は摂・河両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちて之を襲ふ、謂ゆる平野の焼打是れなり。家康僅に免れて葬輿に乗じ、遁れて和泉の半田寺山に至る。偶後藤基次の紀州より帰り来れるに会す。基次之を認め怪みて其の輿を刺す…中略…家康は創を負ひて終に起たず、侍臣密に言遺骸を携へて当寺に来たり、第二世本光禅師に請ひて之を照堂の下に斂む、時に元和元年四月二十七日なり」とあると紹介している。
関連リンク | 堺市(WEBサイト) |
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参考文献 |
堺市(WEBサイト) 「文化遺産オンライン」仏殿・山門・唐門 文化庁(WEBサイト) 「朝日日本歴史人物事典」武野紹鴎・千利休 朝日新聞出版 「堺市の文化財」堺市(WEBサイト)南宗寺庭園・仏殿・山門・唐門 堺観光コンベンション協会公式サイト「南宗寺」(WEBサイト) |
2025年03月現在
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