葛井寺ふじいでら

近鉄南大阪線藤井寺駅の東にある商店街を南に300mほど歩くと、左手に朱塗の四脚門がある。この門は国の重要文化財に指定されている西門*1で、正面となるのは、さらに進み左手に曲がった南大門*2である。南大門の正面奥に本堂*3と護摩堂が立ち、阿弥陀堂*4(旧・二十五菩薩堂:2024年4月落慶)、大師堂、本坊などの建物が控え、4月中旬~下旬にかけて藤が境内を飾りたてる。本堂の本尊は天平期の千手観音坐像*5で国宝に指定されている。西国三十三ケ所第5番札所。
 同寺の開基は7世紀前半に百済からの渡来人葛井氏*6(前身は白猪氏)の氏寺として創建したものと考えられており、寺の西側にある辛国神社*7は同氏の氏神だとされる。その後、一旦は衰退したが、1096(永長元)年藤井安基*8が荒廃していた当寺を再興し、このため藤井寺とも表記され、地名にもなった。
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みどころ

駅からは少し遠回りになるが、やはり正面となる南大門側から入ったほうが古寺の風格が感じられる。本堂のどっしりした佇まいは、前景の楠木正行が旗を掛けたという緑濃い松の枝ぶりと相まって、家並みが迫っているだけに余計に強調される。左手の阿弥陀堂は2024(令和6)年4月に落慶し、特別拝観が実施される。西門の四脚門は、意外と小ぶりだが、しっかりとした瓦屋根に松がかかり、本堂を見通す構図は風情がある。帰りは昭和の面影がのこる商店街をのんびりと楽しみながら駅に向かいたい。
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補足情報

*1 西門:1601(慶長6)年豊臣秀頼が再建したという朱塗の美しい四脚門で、現在は西門になっている。葛井寺に残る最古の建造物。
*2 南大門:1493(明応2)年に藤井寺合戦の兵乱により焼失し、再建したものの、1510(永正7)年の地震により再び失い、現在のものは1790(寛政2)年に建立した楼門。両脇には仁王像が安置されている。
*3 本堂:千手観音坐像を本尊とする本堂は、江戸中期の造営とされている。拝観有料。
*4 阿弥陀堂:1746(延享3)年造営され、1934(昭和9)年に修復が行われたが、傷みが激しいため、再建中。堂内にはこれも修復中の阿弥陀三尊二十五菩薩を安置する予定。ここの仏像群は阿弥陀迎接像といわれ、1731(享保16)年頃に造立されたといわれている。なお、迎接像とは11世紀に来迎図とともに来迎像も造られ、当時は来迎図は極楽迎接曼荼羅、来迎像は迎接像とも呼ばれていた。
*5 千手観音坐像:本堂に安置。像高1.46m、奈良時代によく行われた脱活乾漆像で、頭上に十一面を戴き、背後に大小1001本の手を放射状に並べ、正面の合掌手を合わせ1041本の手を有する。森厳な表情ながらも細い柔和な目、体躯は乾漆像特有の柔らかさがあり、天平仏として秀逸な像である。なお、脱活乾漆像塑は造の原型に麻布を漆で貼り重ね、塑土を取り去り、線部は木粉に漆を混ぜたもので仕上げた像のことをいう。毎月18日が開帳日である。拝観有料。
*6 葛井氏:応神朝のころに百済国辰斯(しんし)王の子辰孫王が渡来したと伝えられ、その末裔が721(養老5)年河内国志紀郡長野郷(藤井寺市周辺)の土地を給い、葛井連(むらじ)と改称、葛井寺周辺を領有していた。国分町や野々上付近の船史(ふなのふひと)、羽曳野から津堂にかけて住んでいた津史(つのふひと)も同族である。
*7 辛国神社:西門を出てすぐ。小社ではあるが延喜式内社。古くは韓国(からくに)神社と称し葛井氏の氏神を祭っていたと思われるが、平安時代の国風化にともない社名を辛国、祭神を渡来系の神社共通の須佐之男神にしたと思われる。
*8 藤井安基:同寺所蔵の「河南紫雲山(藤井寺の山号)縁起」によると藤井安基は「大和国賀留の里(現・奈良県橿原市)」の人で「其志邪見にして、因果を信せず」という生活を送っており、ある時「山中の堂に入て、仏像を打折き、巻き取梨、鹿お肉を煮て」食べたところ頓死したが、三日後に蘇生したという。安基によれば、地獄に行ったが、長谷寺の公役は果たしていたので、結縁があるということで、「悪心を翻へし、善業を励むべし」と観音菩薩に諭され、蘇生したという。それより長谷寺で奉仕した後、長谷寺と同木同作の仏像がある葛井寺に参詣したところ、その仏像が地獄で出会った観音菩薩に「相好印象少し違わ」なかったので、それから長く藤井寺で奉仕を続け、堂宇の修復に務め、それを伝え聞いた朝廷からも扶助があり、葛井寺は伽藍ことごとく修復できたという。