施福寺
泉北高速鉄道和泉中央駅から東南へ約10km。路線バスの終点槙尾山バス停*1(駐車場)の先に入山の受付(入山有料)があり、しばらく槙尾川沿いに舗装道を行くと大きな山門*2が建つ。ここから山道に入り、石段が随所にある参道を約1km、徒歩30分ほど登った槙尾山*3の尾根に同寺の堂舎がある。左手の金堂(本堂)を中心に拝堂・護摩堂・大師堂などが尾根一帯に点在し、金堂前の境内からは岩湧山、金剛山、大和葛城山の山容が眺められる。諸堂は、たびたび焼失しており、とくに弘化年間の山林火災で大半を失っており、現在の堂舎のほとんどは安政年間(1855~1860年)以降に再建されたものである。金堂(本堂)拝観料有料。
金堂などには多くの仏像が安置されているが、これは、1603(慶長8)年に豊臣家により、本尊弥勒如来、文殊菩薩、札所本尊 十一面千手千眼観世音菩薩、四天王などが造立され、火災を免れたものだと伝えられている。また、安政年間の再建時に、方違大観音、馬頭観音などの諸仏も納められた。西国三十三ケ所第4番札所で、槙尾寺とも呼ばれてきた。
同寺の開創については、南北朝に書写された「槙(巻)尾山縁起」によれば、欽明天皇の勅願により播州賀(加)古郡出身の修行僧行満によってこの地に建立*4されたという。また、「縁起」では706(慶雲3)年行基が同寺に登り修行し、懺悔秘法率都婆(そとば)を立て、793(延暦12)年、空海はこの寺で剃髪、受戒したとされ、山中の剃髪したという場所には剃髪堂も建つ。正史である「日本文徳実録」の「嘉祥三(850)年三月」の条に「眞木尾寺」の字が見え、927(延長5)年成立の延喜式の主税の条にも「巻尾寺観音堂料五百束」とあることから、すでに9世紀までには修行の霊場、名刹として一定の地位を得ていたといわれている。
金堂などには多くの仏像が安置されているが、これは、1603(慶長8)年に豊臣家により、本尊弥勒如来、文殊菩薩、札所本尊 十一面千手千眼観世音菩薩、四天王などが造立され、火災を免れたものだと伝えられている。また、安政年間の再建時に、方違大観音、馬頭観音などの諸仏も納められた。西国三十三ケ所第4番札所で、槙尾寺とも呼ばれてきた。
同寺の開創については、南北朝に書写された「槙(巻)尾山縁起」によれば、欽明天皇の勅願により播州賀(加)古郡出身の修行僧行満によってこの地に建立*4されたという。また、「縁起」では706(慶雲3)年行基が同寺に登り修行し、懺悔秘法率都婆(そとば)を立て、793(延暦12)年、空海はこの寺で剃髪、受戒したとされ、山中の剃髪したという場所には剃髪堂も建つ。正史である「日本文徳実録」の「嘉祥三(850)年三月」の条に「眞木尾寺」の字が見え、927(延長5)年成立の延喜式の主税の条にも「巻尾寺観音堂料五百束」とあることから、すでに9世紀までには修行の霊場、名刹として一定の地位を得ていたといわれている。

みどころ
山門(仁王門)をくぐったあとは、かなりの急な登りに入る。森閑とした谷あいを縫って石段の山路が続く。まさに江戸後期の「和泉国名所図会」で「四岳八峯層巒蒼翠(四方八方に山々が重なり、樹木が青々と茂る)として宛(あたかも)も䔎花(優曇華・うどんげ)の如し」と描写している通りの雰囲気だ。そして、弘法大師剃髪所跡(愛染堂)を過ぎると、最後に狭く急な石段を登り詰め、弘法大師御髪堂の祠を左に見やり、ひと踏ん張りすると、やっと境内が開ける。金堂(本堂)前の広場を右手に進むと、和泉山系の山並みの眺望が楽しめ、ここで一息つくと良い。それから、おもむろに金堂(本堂)に向かい、丈六(高さ約4.8m)の弥勒菩薩像に対面したい。拝観は仏像群の近くまで近寄ることができるので、その迫力に圧倒される。本尊の弥勒菩薩坐像、脇侍として左手に十一面千手千眼観世音立像、右手に文殊菩薩立像、隅に四天王が護持するといった形で、そう広くない内陣にひしめき合う感じだ。江戸期の作とは言われるが、やはりどっしりとした弥勒菩薩のお顔がよい。柔和で穏やかさに溢れる。順路に従い進むと、こちらも丈六仏だが、方違観音像。ふくよかで頭には艶やかな宝冠を被り、静かに膝の上の経文を読み唱えている感じがする。内陣の裏手には、空海像と最澄像や二十八部衆、元三大師などが安置されている。足守りの馬頭観音は意外に小さいが、こちらに足裏を見せる格好で憤怒の形相に驚かされる。これだけの仏像群を拝観できれば、厳しい登りもありがたく思え、いずれも間近で拝観できるのでじっくり鑑賞をしたい。なお、上り下りの参道は急で足場が悪い所も多いので足回りをきちんとして参拝したい。

補足情報
*1 槙尾山バス停:乗車申込による乗り合い送迎サービス「チョイソコいずみ」を利用する。
https://www.city.osaka-izumi.lg.jp/kakukano/dezainbu/tosiseisaku/gyoumu/koutsuukankei/public_transportation/access_bus/19627.html
*2 山門:豊臣家による再建時(1603(慶長8)年)に建立されたとされるが、その後、何度も修復が繰り返されている。
*3 槙尾山:標高600mほど、同寺は485mの高さにある。平安初期の説話集「日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)」の中巻の舞台として「和泉ノ国泉ノ郡血渟(ちぬ・茅渟=大阪湾沿岸部)ノ山寺」が出てくるが、これが施福寺とされる。
*4 この地に建立:行満が修行の地を求めて、「和泉国泉北郡池田里」に至ったが、そこに老翁(世親菩薩の明神)があわれ、槙尾山に修行の地として指示したという。「縁起」ではこの地は「今正にその地形を見る。東は霊岳高く、南三峰が聳え、西幽谷が流れ、北玄武(高い山)が峙する(そびえる)」として仏法の修行の場として勝地だとしている。
https://www.city.osaka-izumi.lg.jp/kakukano/dezainbu/tosiseisaku/gyoumu/koutsuukankei/public_transportation/access_bus/19627.html
*2 山門:豊臣家による再建時(1603(慶長8)年)に建立されたとされるが、その後、何度も修復が繰り返されている。
*3 槙尾山:標高600mほど、同寺は485mの高さにある。平安初期の説話集「日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)」の中巻の舞台として「和泉ノ国泉ノ郡血渟(ちぬ・茅渟=大阪湾沿岸部)ノ山寺」が出てくるが、これが施福寺とされる。
*4 この地に建立:行満が修行の地を求めて、「和泉国泉北郡池田里」に至ったが、そこに老翁(世親菩薩の明神)があわれ、槙尾山に修行の地として指示したという。「縁起」ではこの地は「今正にその地形を見る。東は霊岳高く、南三峰が聳え、西幽谷が流れ、北玄武(高い山)が峙する(そびえる)」として仏法の修行の場として勝地だとしている。
関連リンク | 施福寺(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
施福寺(WEBサイト) 「和泉市史 第1巻」1965年 82・116/395 「大日本仏教全書 第120巻 寺誌叢書 第4巻 尾山縁起証文等之事」73~75/259 国立国会図書館デジタルコレクション 「日本歴史地名大系 施福寺」平凡社 和泉市の文化財(WEBサイト) |
2025年03月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。