富田林の街並みとんだばやしのまちなみ

近鉄長野線富田林西口駅から徒歩7分。1560(永禄3)年頃に創建された宗教自治都市、寺内町*である。碁盤の目のように整然とした町並みになっている。また、東高野街道と堺、大和への道が出合う位置にあり、早くから交通と商業の中心地として開けていた。緩やかに起伏する閑静な羽曳野丘陵は、住宅地・文教地区として好まれ、1954(昭和29)年にはパーフェクト リバティ(PL)教団*が進出してきた。1997(平成9)年、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
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みどころ

寺内町には江戸から明治時代にかけての町家が多く、旧杉山家住宅(国の重要文化財)や仲村家住宅(府の指定文化財)など、個々に文化財として価値の高いものがあるとともに、町そのものも1997(平成9)年に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。富田林興正寺別院の前を走る城之門筋がメインストリートで、幅4mほどの道の左右に古い建物が立ち並ぶ。路地は直行せず、少しずつずれて「あてまげの辻」と呼ばれる。
 その中でひときわ目立つ旧杉山家住宅は1983(昭和58)年、国の重要文化財に指定された。杉山家は寺内町創立以来の旧家で、造り酒屋として成功し発展した。江戸時代の屋敷図では、主屋、酒蔵など十数棟が軒を接して建てられていた。現存する主屋の土間部分が17世紀中期で最も古く、1747(延享4)年頃、ほぼ現状の形に整ったと考えられている。寺内町の中で最も古い遺構で、規模も大きく質の良い商家の住宅である。1983(昭和58)年に市が購入および寄贈を受け、一般公開している。
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補足情報

*寺内町:1558年頃(永禄初年頃)、興正寺の門跡証秀上人が、富田の荒芝地を銭百貫文で取得し、近くの4か村の庄屋株各2人、計8人に興正寺別院の建立と畑屋敷、町割などの建設を要請したのが始まり。町は当初から南北6筋、東西7町(のちに6筋8町に拡幅)に町割りされ、街区はおおむね東西約38~40間、南北18~20間の長方形に区画されるとともに、東西に走る背割水路により南北に二分された。周囲を竹藪のある土居を廻らし、外部からの出入りは4か所に限られていた。1644(寛永21)年には、総家数288軒、うち持ち家が188軒、借家が100軒であった。ほとんどが藁葺きで、瓦葺きは規模の大きな富裕層に限られていた。交通の要衝であり、米、綿、菜種などの農作物と水に恵まれていたことから、近世以降、南河内一の商業地として発展した。
*パーフェクト リバティ教団:PL教団の名で知られている。「ひとのみち教」の後身で故御木徳近が「人生は芸術である」を教義として1946(昭和21)年に開いた新宗教。1954(昭和29)年に羽曳野丘陵1000万m2の土地を大本庁として開発した。
関連リンク 富田林市(WEBサイト)
参考文献 富田林市(WEBサイト)
「写真でみる民家大辞典」日本民俗建築学会 2005 柏書房
「旧杉山家」富田林市

2025年03月現在

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